読書ノート 「未来省」 キム・スタンリー・ロビンスン 瀬尾具実子訳
一度ここで短めのコメントをしたが、消化不良であったので再び取り上げる。
私はなんといってもこの小説がディストピアから出発し、世界を変革していくというポジティブな物語であるところに強い興味を掻き立てられている。現在書いている小説『揺動と希望』がそういう物語になるはずで、その下支えとして読む。世界をポジティブにメタモルフォーゼするには、どうすればいいのだろう、ということをいつも考える身として、その言語化・具象化された物語としてこれを読もうとしている。
出版元の特設ページにおけるあらすじ紹介はこんな感じ。
Chapter3で、未来省の成立過程を見る。COP21に単を発し、COP29で「協定を実施するための補助機関」として未来省は設立される。
その後、インドに熱波が襲い、2000万人が数日のうちに亡くなる大災害が起きる。インドは、狂乱し、みさかいなく、空中に二酸化硫黄を数カ月に渡ってばらまく。それで火山噴火後の火山灰の雲を再現し、太陽光熱を遮断しようというもの(地球成層圏に二酸化硫黄を散布して太陽の光を宇宙に反射する反射層を人工的に作る技術「成層圏エアロゾル注入」)。他国の非難を顧みず、実行する。しかしインドは揺るがない。こんなふうに。
インドは急激に変化する、政権は崩壊し、カースト制が廃止される。破壊神カーリーの呪いを恐れ、気候変動に対して強烈に動き出す。
未来省法務部門の責任者タチアナ(彼女は最後にはテロに斃れる)は、主人公メアリーに対して「新しい宗教を作りましょう」と持ちかける。大いなるもの・最古の宗教の復活であるとする。最後にそれが実現したかどうかはわからないが、その萌芽までは行くことができたと思われる。これはやはり、柄谷行人の交換様式Dの顕現をイメージさせる。
この大災厄を止めるために未来省がしたことは、世界統一のインターネット(「Your Lock」)、カーボンコイン(世界基準デジタル通貨)の設立。カーボンコインは炭素を燃焼しないことに対して証明・発行され、ブロックチーン(分散型台帳)の仕組みで交換運用される。炭素を燃焼すれば課税され、回収すればコインがもらえる。中央銀行によって発行量をコントロールし、最低価格が保証されるなか、世界全体が炭素燃焼削減・温暖化対策に積極的に乗り出すことが実現できる、とする。この小説のキモであろう。
他のアイディアとしては、二〇〇〇ワット社会(家庭で消費される全エネルギーを人間総数で割ると、ひとりが使える電力は約二千ワットである)、南極の氷の底の水を汲み上げ、氷河が底の地面にくっつき、摩擦熱が抑えられて溶けるスピードを抑える(ブロックチーンの使用電力の七倍の電力が必要)、「ハーフ・アース」活動(地球の半分を自然保護区にする)などなど。出版社特設ページの読書ガイドも大変参考になります。
おもしろいのは、ところどころで、いろいろな擬人化描写が差し込まれているところ。
Chapter2では太陽、Chapter43ではブロックチェーンが擬人化され、ぐずぐずもの申しています。その他、46(市場)、53(光子)、66(炭素?)、77(歴史)、88(すべての動物?)、95(存在)などなど。
書きぶりはこんな感じ。
プロティノスの神、スフラワルディ、イブン・アラビーの神、スピノザの神、老師のタオに似た、すべてである存在=神の記述。キリストの神ではないですね。
インドで熱波に遭遇したフランクは、その後ホテルにいるメアリーを急襲し、世界に対する危機感を全身で感情的に押し付ける。その罪と事故的に人を殺した罪で収監される。出所し、メアリーとの不思議な交友関係を経て、脳腫瘍で死んでしまう。苦しみの中で彼は言う「こんなのはただの運命だ。ただの運命なんだ」。それに対してメアリーは言う。「友よ、運命なんてものは存在しないわ」
解説の坂村健は、この本の様々な欠陥について触れ、その欠陥を考えることこそが重要と言う。無論、この本を強力に推薦している本人としての言葉だ。著者のロビンソンが世界の各国について詳細な分析を提示しているなか、日本については「意図的に」外しているという。ロビンソンのユートピアには日本的精神「もったいない」が不可欠のはず。もっと言えばロビンソンのユートピアは「前世紀の日本をDXして欠点をなくした社会」であり、逆に言うとある意味日本は世界の特異点であって、日本を出すと本書の流れが上手くいかず、それで外したのではないかと穿っている。他に、原子力・核融合のエネルギー問題や、世界的に普及させるカーボンコインのブロックチェーン消費電力についても言及されていない、スマートフォンやAIの進化が描かれていない、などの大きな「抜け」は見えている。
しかしそれにも増して、本書の意義は大きい。大災厄が起きなければ動かない世界は今もそうだし、それを動かすときの方法を詳細にシュミレーションしたSFは少なく、きっと生きていれば小松左京も大絶賛したであろう。
では、日本はどうするのか。これを書ければいいな。
坂村健の「未来省を語る」も読むべし。
パワーバランスとしては利権者とテロと市民について考える。大災厄がなければその関係は非対称のまま変わらない。「外部」が状況を変えるというのは世の常だが、その「外部」をどうするかは腕の見せ所。人生やることが多い。