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それがあまりに美しいから

「別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。」という川端康成の言葉はあまりにも有名で、実践したことはないものの、どんなご時世でも変わらずに花を咲かすいわゆる季節の花を見る度にこの言葉を思い出す。人には人の花の名がある。それは音楽かもしれないし、景色かもしれないし、食べ物かもしれない。私のそれは、各駅停車の先頭車両だ。

学生の頃、私は先頭車両に乗って通学をしていた。階段や改札からは遠かったけれど、その分同じ学校に通う人も少なかった。好きな人と付き合い始めてからはふたりで先頭車両に乗っていた。特に約束をしていたわけではない。でも、各駅停車の先頭車両に乗れば、必ず会えた。

季節が巡っても、雨が降っても、遅延のアナウンスがかかっても、ふたりで並んで先頭車両に乗った。つまらない喧嘩をして一言も口を聞かない日もあった。試験前に単語帳や参考書にかじりついていた日も、有線イヤホンを片耳ずつ付けた日も、携帯ゲームで対戦した日も、そのどれもが、あたたかくてやさしい小さなキラキラになって私の心に残っている。

彼のことを考えたとき、今でも無性に先頭車両に乗りたくなる。先頭車両を見ても、彼のことを思い出す。でも、乗らない。未練じゃない。綺麗な思い出をそのままにしておきたくて、あの時の私たちの愛おしさをしまっておきたくて。もし先頭車両で新たな思い出ができてしまったら、せっかくの思い出は霞んでしまうだろう。思い出なんて、うんと美化して、綺麗すぎるくらいがちょうどいいのかもしれない。

先頭車両の厄介なところは、春夏秋冬朝昼晩問わずにそこにいること。会おうと思えばいつでも会えること。花の名前なら一年のうち数日でいいのにな、なんて呟きはここに置いて行く。

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