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日常の小さな幸せを放棄しちゃダメだって、猫じゃらしが教えてくれた

最近、とっても大好きな曲がある。

RADWIMPS「猫じゃらし」である。

この曲は午後ティーのCMでも現在放映されている、CMソングだ。

家でソファーに寝そべって、「さぁーて、Instagramで可愛い女の子でも探すかなぁ〜」なんて馬鹿してたんですけど、テレビから心地よい声と音色が。

「いーざ、僕らで、行こうぜ」
「はーじめましての、今日へ」

スマホなんか放り投げ、すぐさま誰が歌って何の曲かをテレビで知るため、釘付けになった。(無論、深田恭子は可愛かった)

その2分後、放り投げたスマホを拾い上げ、iTunesで曲をダウンロードした。

この楽曲は、猫を喜ばせ、じゃらつかせる道具の「猫じゃらし」をテーマに、人と人の関わりや愛情について作られたようだ。


歌詞を読んでいく内に、曲を流す内に、心が癒やされていく。

「騒ぎ立てるほど不幸じゃない毎日と」
「聖者になれるほど幸福じゃない毎日を」
「ある朝アラームに笑われた気がした」
「シャワーの音に哀れまれた気がした」

何だこの、多幸感あふれるリリックとメロディは。

「幸せはなるものじゃない、幸せは気づくものだよ」そんなことを語りかけている。

最近の僕は暗い顔をして「コロナー、俺の幸せ返しておくれよぉー」なんてコロナのせいにして幸せを放棄していた。


人間が生きる上で大切なのは笑顔と愛と空気だ。

そんなことすら、僕は忘れていた。

けど、「猫じゃらし」が思い出させてくれた。


僕たちは、猫のようにただ、目の前にある猫じゃらしと戯れ、その瞬間瞬間をもっと大切に生きるべきかもしれない。

それは、家族や友人、大切な人と過ごす日常の中に存在する、ほんの小さなコミュニケーションだったり気づきなのだ。

親に電話して「ちゃんとご飯食べてるの?」なんてお決まりフレーズを聞いてみたり。

友人とオンライン飲み会で「コロナやべぇーよなー」なんてグダってみたり。

大切な彼女に「会えない時間でもっと好きになったわ」なんてカッコつけてみたり。

歌詞にもあるように「触れるくらいの幸せ抱っこして」、「背負えるくらいの悲しみおんぶして」生きていくのが丁度良いのかもしれない。

結局、何を言いたいかというと、自分と向き合うことを忘れているならば、自分の胸に手を当てて「今日、何が幸せだった?」と問うべきなのかもしれない。

ちなみに僕にとっての今日幸せだったことは、お昼に食べた松屋のブラウンシチューハンバーグ定食に、「目玉焼きをトッピングしちゃった」ことである。

差し支えなければ、あなたの「今日幸せだったこと」も教えてほしいです。

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