【小説】sakekotoba(6)
逃げるが勝ちって言葉をいいように解釈して、チャレンジしないことの言い訳に使ってる人っているじゃん。
昔から私はそういう人たちを軽蔑していて。だって立ち向かうべきことから逃げ続けたら、自分では何もできない大人になっちゃうでしょ。
でも、今の私はまさに、そんな唾棄すべき人間に成り下がっているわけで。
自分から足を踏み入れたのに、もうすでに逃げたくなってる。逃げちゃダメだって言ってたのは、どんなアニメだったっけ。内容は全く知らないのに、言葉だけが妙に印象に残ってる。
「ねぇ、堀口さん。私に話したいことって何?」
目の前では、村崎さんが不思議そうに首を傾げてる。ああ、すいません。私から呼び出したのに全然踏ん切りがつかなくて。
バーではあんなに息巻いてたのに、いざ目の当たりにしてみると、適当にお茶を濁しとけばいいんじゃないかって思っちゃう。なんて臆病なんだろう。どうでもいいことはいくらでも言えるのに、大事なことに限って言えないのだ。
せっかく日が出て、小春日和の陽気も私を後押ししてくれてるのに。
「む、村崎さんってもし一億円があったら、何したいですか?」
バカか、私は。こんな仮定の話を聞いてどうする。
ほら、村崎さんだってきょとんとしてるじゃないか。何言ってんだこいつと言う目で、私を見てきてるじゃないか。
「どうしたのいきなり? 何かの心理テスト?」
「ま、まあそんなところです」
とりあえず私は答える。んなわけあるか。何のメタファーにもなってない。
だけれど、私の馬鹿馬鹿しい質問にも、村崎さんは真剣に考える様子を見せていて、やっぱりこの人はいい人なんだなと再認識する。
こんな愚にもつかないことを考えさせているのは申し訳なかったけれど、屋上には他に誰もいなかったから、村崎さんを独り占めできているようで、気持ちよくもあった。
「そうだなぁ……。そんな金額使いきれないから、いらないって言いたいとこなんだけど、それじゃ答えになってないしね。とりあえず世界中を旅行してみたいかなぁ。別に世界一周の旅とかじゃなくて、気の向くまま好きなところへ行けるようになったら最高だよね」
この人はなんて自由な発想の持ち主なんだろう。ブランド物を買い漁ったり、高級レストランに行きまくりたいと考えてた自分が、俗物に思える。
目の奥が輝いていて、私の心臓はどうしようもなく高鳴った。村崎さんに、私がどれだけドキドキしているか知ってほしい。きっと引いてはくれないはずだ。
「それって会社を辞めてってことですか?」
「いや、仕事は続けるよ。当たり前じゃん」
平然と言い放つ村崎さんに、私は当たり前って人によって違うんだなと、それこそ当たり前のことを思う。
私が一億もらったら、即会社を辞めるのに。ストレスのない自由な生活を謳歌するのに。
「でも、働かなくてもいいぐらいのお金あったら、仕事辞めません?」
「あのね、一億円くらいじゃ一生遊んでは暮らせないよ。いずれにせよ仕事は続けなきゃ」
村崎さんの見解は夢もへったくれもなかったが、そんなもんなのかなと私に思わせた。
三億円とか言っておけばよかった? でも、いずれにせよ村崎さんは仕事を続けるって答えそうだな。性格を考えると。
私は無意識のうちに目をぱちくりさせていたらしい。村崎さんが微笑んだから、私は一歩距離を詰めて、村崎さんに触れたくなる。
「それに、私はお金だけのために仕事をしてるんじゃないしね。いや、もちろんお金は大事だよ? でも、今の仕事が私はけっこう好きなんだ。人と会って話すことのできる今の仕事が。まだまだやりたいこともあるし、そんな簡単には辞められないよ」
「やりたいことって、なんですか?」
「ウチの冷食をもっと世間に広めることかな。もっと美味しい冷食を売って、冷食を使うことは手抜きじゃないんだぞって、認識を変えたいの。時間がない中で冷食を食べるのは、料理をすることから逃げてるんじゃないって、思ってもらいたいかな」
意識高い系は嫌いだ。言ってることばかり立派で、行動が伴ってないから。
でも、どれだけ高い理想を掲げられても、村崎さんが言うと全く嫌味に聞こえない。言うだけの資格があると感じる。
ああ、やっぱりこの人いいな。ちゃんと目標を持って生きてる。憧れちゃうな。
だけれど、もう憧れているだけではいられないと、私はここに来るまでに決めたのではなかったか。
マスターの言葉を今一度思い出す。突き飛ばすのではなく、優しく背中を押してくれる。
「まぁ道のりは遠いんだけどね」と言って笑う村崎さんを、私は確固たる意志を持って見上げた。全ての要素が完璧で、私なんかとても並び立てる気がしない。でも。だけど。
「私、好きです」
「好きって何が? 仕事が? それとも冷食?」
「いえ、村崎さんが好きなんです」
心が揺れた。悪酔いするかと思うくらい揺れた。告白だって、今までしてこなかったわけじゃない。
だけれど、心は学生時代よりもはるかにぐらついていて、大人になることイコール、精神が安定することではないことを私は知る。
どうしよう。今までそんな素振りは見せないようにしてきたのに、急に告られて変な奴だと思われてないだろうか。
だけれど、村崎さんの表情は、私の心と不釣り合いなくらい凪いでいて、この人はきっと今までの人生で、何度も告られてきたんだろうなと悟る。
「うん、ありがとね。私も堀口さんのこと好きだよ」
「それは一緒に仕事をする仲間として、好きってことですか?」
村崎さんは私の疑問に微笑みで返していて、言葉にせずともYESと言っていた。本気にされていないことが分かり、心の奥がじくじく痛む。
それじゃダメなんだ。私は村崎さんの特別になりたい。ただの同僚Aとしての存在なんていらない。堀口胡桃として、村崎さんの心にいたい。
「私は堀口さんのことが好きなんです。先輩や同僚じゃない、一人の人間として大好きなんです。堀口さんの誰にでも優しいところ、素敵だと思います。でも、私にだけはもっと、特別な優しさを見せてほしいんです。お願いです。私と純粋なお付き合いをしてはいただけませんか?」
「でも、私でいいの? 私堀口さんが思ってるほど大した人間じゃないよ。部屋の掃除は月一回しかしないし、休みの日は昼過ぎまで寝てるんだから。堀口さんには、もっといい人がいると思うんだけどな」
「そんなの大した問題じゃないですよ。むしろみんなそんなもんなんですから、堀口さんだけがダメってわけじゃないですよ。私なんて家にいるときはもっと酷いんですから、そんなこと言われても全く幻滅なんてしません。むしろ安心します」
「でも、ウチの会社って、わりと古いとこあるじゃない? 社内恋愛なんてもってのほか、みたいな雰囲気あるし」
「そんなの皆には内緒で付き合えばいいじゃないですか。私絶対誰にも言いませんから。それともアレですか? 村崎さんは今、好きな人でもいるんですか?」
村崎さんは少し迷ったような表情を見せる。即答しないということは、誰か適当な相手を探しているのか、それともいるけど私に遠慮して言わないだけか。
私は前者だと思う。「えーと」なんて言っているのが、わざとらしい演技に思えたからだ。
「もしかして、女同士だから戸惑ってるんですか? そんなの今時、何の障害にもならないっていうのに」
「そういうことじゃないよ。ただ、私は堀口さん、っていうか女性を今までそういう目で見たことがなかったから、ちょっと答えを出すのに時間がかかってるだけ」
いつも快活な村崎さんにしては、その返事は歯切れが悪く、正直な気持ちを吐露しているのだと分かる。私が本気だということを知って、どう答えればいいか迷っているようだ。
だけれど、私は言葉を重ねることを選んだ。
一方的なエゴかもしれないけど、それでも堰を切ったように、村崎さんが好きだという想いが溢れ出てくる。
押してダメなら引いてみろなんて言葉、今の私にはなかった。この好機を逃すわけにはいかない。押して、押して、押すだけだ。
「私そんな魅力ないですか? 分かってます。今のままじゃ、村崎さんにふさわしくないってのは。でも、努力しますから。努力して努力して、村崎さんの望む人間になりますから」
「いや、堀口さんは今のままでも十分魅力的だよ。私に合わせて無理に変わる必要なんてない」
「じゃあ、どうすれば私を受け入れてくれますか? 物ですか? 印ですか? 村崎さんのことが好きっていう、純粋な気持ちだけじゃダメですか?」
「いや、気持ちは十分に嬉しいの。堀口さんの真剣な想いに答えたい自分もいる。でも、同性のカップルってまだ色々大変じゃない。二人でいるだけで、心ない人たちから、変なレッテルを貼られたりするし。だから、他の多くの人と同じように男性と付き合った方が、堀口さんにとってもいいと思うんだ」
「ふざけないでください!」。相手が村崎さんじゃなかったら、私は間違いなくそう叫んでいただろう。
もう令和なのに、村崎さんがまだそんな保守的な考えでいたなんて。惚れた弱みで幻滅はしなかったが、確実に頭には来ていた。
そんなの気遣っているようで、かえって私に失礼だ。私と本気で向き合うことから、逃げているとさえ思う。
もちろん強制はできないんだけど、私がもう逃げないと決めたからには、村崎さんにも逃げてほしくない。男とか女とか、そんな次元じゃなくて、一人の人間として私を見てほしい。
「確かに私は、今まで何人かの男性の方と、お付き合いをさせていただいてました。でも、誰と一緒にいてもどこかしっくりこなくて。ずっと違和感を持ってたんです。けれど、村崎さんを初めて見た瞬間に、なんだか私の魂の形がようやく自覚できたと言いますか、自分の本当の姿に気がついたんです。正直、今までの私は村崎さんのことを、推しって概念に閉じ込めて、崇拝してました。だけれど、ある人と話しているうちに、それは好き、もっと言えば愛してるって気持ちに蓋をしていただけなんだって、気づかされました。何度だって言います。私は村崎さん、村崎由愛のことが大好きです。心の底から愛してます。だから、お願いです。村崎さんも自分の気持ちに、正直に答えてください」
私は村崎さんから目を逸らさなかった。言葉だけでなく目でも訴えかける。きっと想いは届くはずだと、子供みたいに信じた。
地上の喧騒からも離れ、屋上はうんと静かで、世界には私たち二人しかいないのだと錯覚する。
村崎さんも私の目をじっと見ている。想いの強さを試すかのように、瞳の奥を凝視している。
そして、一つ息を吐くと、とびっきり優しい笑みを浮かべた。本心が読めなくて、余計に私を緊張させる。心臓が口から飛び出てしまいそうだ。
「堀口さんがそれだけ私を想ってくれてるなら、私ももう逃げたり、ごまかしたりするわけにはいかないね」
村崎さんの目が強度を増して、私を捉えている。周囲の音はもう耳に入らない。
「分かった。私でよければ、堀口さんの告白、受けたいと思う」
「えっ、それって……」
「堀口さんと付き合うってこと。みなまで言わせないでよ」
微笑む村崎さんの目には、照れは全く見られず、清々しさで満ちていた。
はい、永久保存決定です。これからどれだけ辛いことがあっても、今の村崎さんの言葉と表情を思い出せば、乗り越えていけそうだ。
想いが受け入れられたのになお、私の心臓はバクバクと動いていて、やりすぎなくらい全身に血液を送っている。このままだとオーバーヒートして、倒れてしまいそうだ。嬉しさのあまり倒れるなんて漫画だけだと思ってたのに、現実でもあるなんて。
私の身体は至極単純だったけど、今はその単純ささえ愛おしかった。
「ほ、本当にいいんですか? だって私ですよ?」
人は想像を絶する喜びがもたらされると、すぐには飲みこめないようできているようだ。
私は脊髄反射みたいに、わけわかんないことを口走ってしまう。この期に及んで自分を卑下するなんて。告白を受けてくれた村崎さんに失礼だ。
ああ、今すぐ大声で叫んでしまいたい。それができないなら、犬みたいに村崎さんの周りを駆けずりたい。
「何言ってんの。堀口さんだからいいんでしょ。いや、もう堀口さんなんて言い方、よそよそしいね。名字で呼び捨てにすると偉そうだから、下の名前で呼んだ方がいいかな?」
あはは。村崎さん乗り気だ。さっきまであんなに渋ってたのに、別人みたい。
そんないきなり距離を縮めてきて、私の心臓でも盗むつもりなんだろうか。
「あっ、えっ、はい。そうしてもらえると嬉しいです。ていうか、村崎さん私の下の名前ご存知なんですか?」
「当たり前でしょ、胡桃。お友達と話してるの、聞いてるからね」
うわっ、やばい。村崎さんの口から出た私の下の名前は、言葉にできないほどのインパクトだ。
ボクシングの試合だったら、もうゴング鳴らされてるか、白タオル投げ込まれてるな。
でも、これは何気ない日常の一コマだから、私は辛うじて立っていられた。ギブアップなんてしてられない。
「あ、ありがとうございます。じゃ、じゃあ私もこれからは二人っきりでいるときは、村崎さんのこと由愛さんって呼んでもいいですか?」
「別にさん付けしなくても、由愛でいいのに」
「い、いえ。それだともう私の心臓が持ちそうになくて。少し慣れる時間をください」
「分かった。徐々に、ね」
村崎さんはずっと相好を崩していないから、からかわれているような気さえしてしまう。でも、嫌だとは感じない。滲み出る大人の余裕みたいなものが、心をくすぐって、私も笑顔にしてくれる。
ああ、今私が世界で一番幸せだ。これ以上の幸せなんてないように思える。
だけれど、今を人生のピークにするわけにはいかない。これから私たちはもっともっと幸せになるのだ。いや、私たちなら絶対になれる。
根拠のない万能感が全身を巡って、私を満たしていた。
村崎さんが腕時計をちらりと見る。多幸感にあふれた時間が、いったん終わってしまう。
「本当はもっと胡桃と話してたいんだけど、そろそろ時間だし戻ろっか。また仕事終わりにね」
踵を返そうとする村崎さん。社会人として当然の反応だ。
だけど、私は一時的にでも終わりを受け入れたくなくて、思わず村崎さんを呼び止めていた。上ずった声が出た。
そして、村崎さんが振り返るまでの間に、両手を大きく広げる。笑顔は崩さないけれど、心はこれ以上ないほどにぐらついていた。
「心臓が持たないんじゃなかったの?」
私は答えず、ただ微笑みかける。どんな言葉も今の状態には敵わない気がした。
ここまできて断られるわけがないという確信が、私を大胆にさせていたのかもしれない。それでも、ただもう数秒だけでも、村崎さんの時間がほしかった。
村崎さんは小さく頷いた。そして、私に歩み寄ってきて、目いっぱいの笑顔を見せてから、私に体を預けた。
クッションみたいに柔らかい身体が、私を覆い尽くす。背中に腕を回すと、村崎さんの身体もかすかに熱くて、本当は余裕なんてなかったんだと知る。
首筋から、今日はシトラスの香りがして、その爽やかさに思わず泣いてしまいそうになったけれど、私はすんでのところで堪えた。現時点で人生最高の日に、どんな理由であれ涙は似合わない。
村崎さんを私に浸透させていく。ありきたりな表現を使うなら、時間よ止まれ。そう思った。
「ねぇねぇ、由愛さん。見ました? 先週のアド街」
「ううん、見てない。アド街がどうかしたの?」
「実は先週のアド街、ここ北赤羽特集だったんですよ」
「えっ! そうだったの!?」
私が得意げに言うと、村崎さんは大げさに驚いてみせた。想像以上に食いついてくれて、話題の選択は間違っていなかったようだ。
目を見開いている村崎さんも、またチャーミングだな。アド街の大いなるマンネリと、ネタ切れに感謝だ。
「そうですよ。ほら、例えばあそこの定食屋。アド街で一二位だったんですよ。店頭に『アド街で紹介されました!』って貼り出されてるでしょう?」
「本当だ。これ以上ないってくらい浮かれてるね。微笑ましいなぁ」
いつもの帰り道も村崎さんと歩くと、なんだかレッドカーペットみたいに特別に思えてしまう。
見飽きたはずなのに、こんなところに和菓子屋あったんだとか、今まで目に入らなかったものが、どんどんと見えてくる。世界の画素数が上がったみたいだ。これが好きな人と一緒にいるってことなのかな。
「ところでこれから行くバーは、アド街には紹介されたの?」
「いや、圏外でした。紹介されるかなとも思ってたんですけど。まああまり目立たない場所にありますからね」
「へぇ、じゃあ知る人ぞ知るって感じなんだ。そんな隠れた名店知ってるなんて胡桃、意外とマニアックなんだね」
村崎さんが私を下の名前で呼ぶたびに、血の巡りはよくなり、仕事の疲れは消し飛んでいく。肌もつやつやになり、寿命も五日のびる。誇張ではなく、それくらい私は嬉しかった。
「ええ!」と満面の笑みで返す。村崎さんも微笑んでくれて、その笑顔を独り占めできているから、私は天にも昇る心地になった。
まだ一滴も飲んでないのに、もう酔ってしまっていた。
至福の時間は続いて、気がつけばバーは、すぐそこにまで迫っていた。
だけれど、角を曲がった瞬間に私は違和感を覚えてしまう。今まで出ていた看板が、どこにも見当たらないのだ。
もしかして、今日は休業日だったとか?
マスターにいつ休みなのか聞いてなかったな。うわー、ミスったかも。
そう思いながら近づくと、私は眼前の光景に目を疑った。
地下に通じる階段が跡形もなく、なくなっていたのだ。いや、店と店の間はぽっかりと空いていて、行き止まりになっている。まるで最初から、ここにバーなんてなかったみたいだ。
えっ、マジで世にも奇妙な物語の世界観じゃん。
私が見たのは夢? 幻覚?
でも、確かにマスターと話したことは、しっかりと記憶に刻まれているし、スミノフやカクテルの味も舌に刻みこまれている。
どうしよう。これじゃ村崎さんに、頭おかしい奴だって思われちゃう。
「どうしたの? ここにバーがあるんじゃなかったの?」
どう説明していいか分からず、フリーズしている私を見かねて、村崎さんが話しかけてきた。
いや、本当にあったんですって。信じてくださいよ。
そう言っても、村崎さんの私に対する疑念が大きくなるだけだったから、私はまともな返事ができず、しどろもどろになった。
せっかく二人でいられるようになったのに、このままでは嘘つきだと幻滅されてしまう。何としても避けたかったけれど、私の頭はろくな言い訳を思いついてはくれなかった。
「ねぇ、私。バーもいいけど、胡桃ん家で飲みたいな」
それは村崎さんからすれば、混乱している私をフォローするためのものだったけど、そう言われたことで、私はもっとパニックに陥った。連続で隕石が激突したみたいだ。
ひとまず心を落ち着けるために、深く息を吐く。だけど、村崎さんの提案は、私の中で目まぐるしく動き回っていた。
「えっ!? でも、私あまり部屋掃除してないですよ!?」
「私も掃除は月一回しかしないって言ったでしょ。だから全然大丈夫だよ。それとも何? 胡桃は私に見られたくないものでもあるの?」
「いえ、それはないんですけど……」
「じゃあ、行こうよ。途中にコンビニはあるよね? そこでなんかお酒買ってさ、二人飲みしようよ」
無邪気に言う村崎さんが、少しずつこの状況を現実だと私に思わせる。
息をするたびに、心は落ち着いていって、村崎さんを直視できるようになる。爛々とした目をしていて、この人も酒が好きなのだろうと察した。
「はい。行きましょう。コンビニもちょっと行った先にありますし」
私が言うと、村崎さんは「よし、じゃレッツゴー」と、道も知らないのに上機嫌で歩き出した。
かつてバーがあったスペースを束の間見つめてから、村崎さんの後を追う。
ここに住んでさえいれば、いや生きてさえいれば、ひょっこりと私たちの前に現れることもあるだろう。今度行くときは、マスターはどんなカクテルを振る舞ってくれるんだろうか。またいつか会いたいな。
そんなことを思いながら、私は村崎さんの隣に並び立つ。握られた手が、じんわりと温かかった。
完
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