【小説】sakekotoba(1)
「胡桃って、酸素みたいにアルコールを飲むよね」
そう言われたのは、三年前のことだった。
大学の卒業式の夜、私とひまりちゃんは退屈な慰労会を抜け出して、トリキに行っていた。二人して振袖の私たちは、汚い蝉時雨みたいな居酒屋では完全に浮いていたけれど、乾杯してしまえば、そんなことは気にならなくなった。
生チューは値段の割にのどごしがよく、四年間の疲労やストレスを癒やした。この一杯のビールのために、書きたくもない論文を書いて、出たくもない講義に出たのだと思えた。
「人間に酸素が必要なのと同じように、胡桃にはアルコールが必要なんだよ」
「何それ。それじゃまるで、私が人間じゃないみたいじゃん」
「えっ。だって胡桃には肝臓が四個あるんでしょ」
「どんな突然変異よ」
たれが甘ったるい焼き鳥を口にしながら、私たちはこの世の春みたいに笑いあった。
ひまりちゃんが枝豆を妙に艶めかしく食べる。私よりも小柄なのに、胸元が着物の上からでも分かるくらい膨らんでいる。同じように枝豆をくわえてみても、まるで勝負にならない。
年齢と性別以外共通点のない私たちが、どうして仲良くなれたのか、今でも不思議だ。
「でも、注意してよ。酸素も濃度が高くなると、人を殺すんだから。胡桃も酒に殺されないように気をつけないと」
「分かってるって。あっ、ひまりちゃん。だいぶビール減ってきたよね。おかわり頼む?」
ため息を吐くように、ひまりちゃんは微笑んでみせた。
私は手を挙げて店員さんを呼んで、生チューを二杯頼んだ。打算的なカクテルよりも、直情的なビールを私たちは周囲の目なんて気にせずに煽る。
グダグダになるまで飲んだ後は、その辺のカラオケでオールだろうか。私はひまりちゃんの歌うミスチルが好きだ。なんかいろんな色が混ざっている気がして。
気の早いことを考えていると、ひまりちゃんは、見透かしたように鼻を鳴らした。得意げな態度も、まるで不満には感じなかった。
週休二日は現代社会のバグだよなと思う。古代エジプト人は週休三日でピラミッドを作ったというのに。何千年も経った私たちが、比べ物にならないほど小さな仕事を、たった週二日の休みでやってるなんて何の冗談だ。
子供だった私の夢は、不労所得で生きていくだった。
なのにどうして、営業課が上げてきた交際費の申請とにらめっこをしている。私だって会社の金で酒飲みたいわ。
あーあ、早くこのつまんない仕事も、AIがやってくれるようになんないかな。
「堀口さん、こっちの交通費の精算もお願いできる?」
勝浦課長が言ってくる。私しかいないという目で言ってくる。本当は誰だっていいのに、一番反論しなさそうな人間を選んで言っているのだ。
はいはい、やりますよ。仕事ですからね。
勝浦課長から書類の束を受け取る。ウサギのクリップで留められているのが少し腹立つけど、心を無にしてしまえばいい。
私は金属探知機。ただ機械的に異常を知らせるだけ。そう思うとパステルカラーで彩られた室内も、窓際に置かれたふてぶてしい観葉植物も大して気にならなくなる。
私は机に座って、電卓片手に書類との格闘を始めた。ボタンを押すたびに、私の視界は色あせていく。
一秒が一分にも感じられる退屈さの中で、私の耳は確かに自動ドアが開く音を聞いた。
彼女は颯爽と勝浦課長へと向かっていく。私のそばを通りかかったとき、ローズマリーのかぐわしい香りがした。
ちんちくりんな私とは違って、レディーススーツをきっちりと着こなしている。元から背が高いのに、八センチのピンヒールを履いているから、一〇割増しでスタイルがよく見える。気品のある顔も相まって、灯台みたいだ。
神様に愛された人っているんだなと思う。
「由愛ちゃんじゃない。どうしたの?」
「はい、今日は備品の申請をしにきました」
村崎由愛(むらさきよしあ)は、ウチの会社のエースだ。営業成績はいつもトップ。社内外に顔が利き、まだ三〇歳なのに、そろそろ課長になるのではと噂されている。仕事がそこそこな私の唯一の武器、コミュニケーション能力で得た情報だ。
それなのに、勝浦課長は村崎さんを下の名前で呼ぶ。勝浦課長はもともと営業部にいたから、関係も深いのだろう。
長身の二人が話していると、なんだかひらひらと花びらが舞っているかのようだ。ココハナから出てきたみたい。いや、花とゆめか?
「やっぱ二人が並んでると絵になるよね。私もあんな風にかっこよく生まれたかったな」
仕事中なのに、隣の歌苗が話しかけてくる。昨日コンタクトレンズを切らしてしまったらしく、今日は眼鏡をご着用だ。
羨む横顔には小さなニキビができていて、ないものねだりをするよりもまず自分の事を考えようよと、言いそうになったけど言わない。あの全肯定してくれる彼氏に褒めてもらうんでしょ。あばたもえくぼだって。
「そうだね。宝塚みたい。ねぇ、歌苗はどっち推しなの?」
ここは話を合わせておこう。私だって根は下世話だ。
「推しってアイドルみたい」と歌苗が笑うから、私も釣られて笑った。
無だった感情が、村崎さんの登場で蘇る。モノクロの視界に差し込んだ眩い光。
「私は勝浦課長かな。立っているだけで華があるから」
「でも、華なら村崎さんも負けてなくない?」
「胡桃って本当に村崎さん推しだよね。模範的なファンって感じ」
「そりゃあ村崎さんは、私の憧れだからね。同じ会社にいられるだけで幸せだよ」
「うわー、崇拝してるー」
仕事そっちのけでおしゃべりに興じる私たちを、勝浦課長がそれとなく目で釘を刺す。しまった。聞こえていたか。
私たちは、何事もなかったような顔をして、仕事に戻った。指サックがパラパラと書類を捲る。
えっ? ってことはもしかして村崎さんにも聞こえてた? うわー、恥ずかしいー! 穴掘って入りたい!
私は小さく頭を振って、書類と向き合った。四四〇円の運賃がよしあと読めて、頬がほんのり赤くなった。
今日は運よくノー残業デーだったけど、そもそもノー残業デーがある時点でおかしいわけで。
だってノー残業デーを設けないといけないくらい、残業が常態化してるってことでしょ? 漂白化を図るなら毎日がノー残業デーであるべきで。
まあちゃんと残業代は出るから全くのブラック企業ってわけではないんだけど、でも私がパソコンにかじりついている間も、誰かが定時で上がって自由な時間を満喫してるんだろうと思うと、やりきれなくなって。
そりゃ貧乏ゆすりぐらいしますよね。だってアフターファイブなんて概念、うちの会社じゃノーマルレアだから。
まあ何はともあれ、定時で上がれた私はつむじ風のように帰り支度を済ませ、エレベーターの前に立っていた。
経理課は会社ビルの四階にある。ちょうど階段を使うのを躊躇するくらいの高さだ。
勝浦課長は健康のためにって言って階段を使ってるけど、健康診断でもオール異常なしだったのに、これ以上健康になってどうすんだと思う。
別に一〇〇歳まで生きたいわけじゃないし、せっかくあるエレベーターを使わないのは、設置してくれた業者さんに失礼だ。と愚にもつかない理由を並べたてながら、私はエレベーターがやって来るのを待った。
まだ八階にあって、四階に来るのには時間がかかりそうだ。
しょうがない。山手線ゲームでもやるか。お題は会社の嫌なところ。ハイハイ、給料安い。ハイハイ、使わなかった有給は自腹で買い取り。ハイハイ、エアコン効きすぎ。ハイハイ、朝礼の時に回ってくる一分間スピーチ。
「ねぇ、間違ってたら申し訳ないんだけど、堀口さんだよね?」
鈴の音みたいな声が聞こえてきて、私は思わず顔を向けた。
そこに立っていたのは、村崎さんだった。大きな瞳が微笑んでいて、人のよさがにじみ出ている。
えっと、こういうときは何て返事したらいいんだっけ。
私の名前知っててくれてたんですか? いや、今までも何度か話したことがあるから知っていても当然だ。
ご飯一緒に食べ行きません? いや、急に距離を縮めすぎだ。
私の頭はめまぐるしく回って、適当な答えはなかなか見つからなかったけれど、その考えている時間さえ楽しかった。
「村崎さん、なんでここにいるんですか?」
「ちょっと経理課に用があってね。もう時間も時間だし、そのまま帰っちゃおうと思ったんだ」
はにかんでみせた村崎さんは、私の心にクリティカルヒットを与えた。今の笑顔、タレントだったら絶対人気出てる。キャプチャされてツイッターにあげられてる。
ああ、写真撮りたい。村崎さんとのツーショット写真撮りたい。
私は、私のことを見てくれる村崎さんを、頭のフィルムに焼きつけた。脳内アルバムはもう三〇冊を超えている。
「村崎さんって今日帰ったら何します?」
「今日? 今日はこれからライブ見に行くよ。羊文学ってバンドの。知ってる?」
どうしよう。名前すら聞いたことがない。だって、村崎さんと普段聴く音楽の話なんてしたことがない。
もっと半径二キロメートルの話だけじゃなくて、色々聞いておくべきだったな。アイドルとは違って、村崎さんはいつも同じ会社にいるんだから。
「まあ、ぼんやりとは」
「だよね! 羊文学、最近アニメの主題歌とかもやったりして、有名になってきてるもんね! もうすぐセカンドアルバムも出るし、今聴いておいて損はないよ!」
あっ、すいません。そんなに熱量高くこられると、私のキャパ超えちゃいます。まあ、意気揚々と布教している村崎さんも魅力的だけど。
帰ったらすぐ羊文学とやらの曲を聴いてみようと思った矢先、エレベーターが到着した。無機質な空間に私たちは足を踏み入れる。村崎さんが一階のボタンを押してくれたから、私はただ立っているだけでよかった。
エレベーターには私たち以外誰も入ってこなかった。えっ、みんなそんなに帰り支度に手間取ってるの? いや、ありがたいのはありがたいんだけど、いざ村崎さんと二人きりになると、何から話すべきか迷うっていうか、そもそも私ごときが一対一で親しく話していていいのかっていうか。
有り体に言えば、心の準備ができてなかった。
「ねぇ、堀口さんは帰ったらどうするの?」
恐れていた質問が来てしまった。歌苗相手だと素直にテレビやYouTubeを見て寝るだけって言えるけど、村崎さんには、定年後みたいな過ごし方をしてるとは知られたくない。
ショパンを聴きながら、シャンパンを傾けてます、なんておしゃれな過ごし方も、私のキャラに合わないし、絶対嘘だと見抜かれる。バレないボーダーラインが難しい。
「……お酒飲みながら、漫画ですかね。最近は藤子・F・不二雄先生の短編集にはまっていて。『ドラえもん』とか『キテレツ大百科』とかのイメージが強いかもしれないですけど、藤子・F・不二雄先生の短編って、けっこうダークでシニカルなものが多いんですよ」
ここで『鬼滅の刃』とか『呪術廻戦』とか流行りの漫画を挙げてもよかったけれど、私は村崎さんに一目置かれたかった。それには、あえて今の漫画の礎を作った人たちを挙げた方が、効果的だろう。『ドラえもん』じゃなくて、短編を挙げることで教養があるというアピールにもなる。
正直、藤子・F・不二雄先生の短編は一作も読んでないし、何年か前に見たCMを思い出して言っただけだ。具体的な作品を聞かれたら答えられない。
だけれど、村崎さんは「そうなんだ。若いのに珍しいね」と、それ以上追及してこなかったから助かった。
でも、それは同時に私への関心の薄さを意味しているようで、胸がチクリと痛む。
そりゃ村崎さんは社内でも人気高いし。アイドルが一人一人のファンをことさらに意識していられないのと同じように、村崎さんも私だけを見ているわけにはいかないのだろう。
いや、それでも今エレベーターには私たち二人しかいないんだから、もうちょっと関心を向けてくれてもいいんじゃないか。
「村崎さんって、漫画読むんですか?」
「うん、読むよ。こう見えても私ジャンプっ子だから。今でも毎週買って読んでるくらい好きかな」
やった。また村崎さんの新たな一面を知れた。私は心の中でガッツポーズをして喜ぶ。
私だって数年前まではジャンプを読んでたから、『ONE PIECE』が好きと言われれば、それなりに話を合わせられる。さあ、どうだ。
「どの漫画が好きとかありますか?」
「そうだなぁ。最近終わっちゃったけど、『破壊神マグちゃん』が好きだったかな。知ってる?」
村崎さんは目を輝かせている。好きなものの話をするときにはこうなるらしい。だけれど、私はその漫画を知らなかった。えっ、今ジャンプそんな漫画やってるんだ。いや、やってたんだ。
知らないなんて言ったら、村崎さんの目が曇るような気がして、私は「名前は聞いたことあります」と話を合わせた。
すると、村崎さんはぐっと顔を近づけてきて、私のキャパから溢れそうになる。一言でも話されたら、ノックアウトだ。
「そう! 今ね、連載終了記念でジャンププラスで六巻分まで無料で読めるから、ぜひ読んでみて! ゆるい感じのコメディで、読んでて癒やされるよ!」
はい、キャパ超えた。テンションの上がっている村崎さんに、私は声にならないような返事をすることしかできない。あとでジャンププラスを見てみようとさえ考えられなかった。
一階に到着したエレベーターが開いて、かけがえのない時間の終わりを告げる。村崎さんは、私を先に下ろしてくれたけれど、「じゃあね」と言っただけで、足早に去っていってしまった。
上機嫌な後ろ姿に、これ以上何も望んではいけないと悟る。推しはいてくれるだけで尊いのだ。
こうやって話すことができるだけで幸せだ。
私は呼吸を静めてから、会社の外へと歩き出した。仕事はつまんなかったけれど、村崎さんと話せたから、今日はオールOKだった。
続く
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