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碧空を征く 最後の海軍航空艦隊 彗星艦爆隊員の手記より   第一章

この記事は、下記の記事の続きです。

昭和100年・戦後80年の節目のこの年。
「碧空を征く」は、特攻隊員としての父の実体験をもとに、戦争の悲劇と平和の尊さを伝える手記です。父が残した言葉を通じて、当時の歴史や心情を振り返り、未来へのメッセージを紡いでいきます。今回は、「海軍甲種飛行予科練習生」です。

海軍甲種飛行予科練習生

海軍甲種飛行予科練習生、通称「甲飛」と呼ばれ、教程は1年6ヶ月であり、旧制中学卒業者が受験資格を有していた。昭和5年より歴史を有し、日本海軍航空35年史の後半15年が予科練の活躍の舞台であった。

太平洋戦争は、その名の通り海の戦いであり、その勝負の帰趨は海軍航空戦力によって決定された。しかも、その主力を予科練が占めていたことは言うまでもない。
 
若者たちは17歳で第一線に奮戦し、予科練はよく戦った。彼らは強かった。予科練の足跡は、国家が当面した危機に対し、民族の若い肉体と精神を一つにまとめ、高い組織力と機能力を誇示した、決して滅びることのない日本史の一ページであった。
 
昭和17年10月、第12期海軍甲種飛行予科練習生の募集が告示された。ミッドウエー海戦をはじめ、ソロモン群島方面の激烈なる航空戦で、虎の子の搭乗員を大量に喪失した海軍は、これを充足するため、10期生1100名、11期生1200名に対し、約3倍に当たる3200余名の採用を計画した。このため、年齢制限を1年切り下げ、入隊時満15歳とした。
 
制服も11月から水兵服(ジョンベラ)を7つボタンに変更し、志願者の拡大を図った。第一次の学科試験は18年1月7日、8日の両日、全国一斉に行われ、その合格者を2月中旬に各海軍鎮守府ごとに集めて、第二次の精密身体検査および航空適性検査を1週間にわたって実施した。
 
応募者は53000人で、第一次学科試験の数学、理科学、英語、国語、地理、歴史、作文の各科目で80点以上を取った合格者5000人が第二次試験に臨んだ。
 
呉海軍鎮守府管内にある松江中学の同輩5名が岩国海軍航空隊での第二次試験を受けた。毎日数種類に及ぶ試験検査の結果は当日夕刻に発表され、不合格者は翌日退隊の振るい落としが行われる、1週間にわたる厳重な試験検査であった。

身体的な面はもちろん、反応や知覚の平均官能も、高度な科学技術の粋を集めた飛行機搭乗員の採用試験であった。

中でも異様に感じたのは、人相骨相学者(易者)による1人ひとりの診断検査があり、進んだ航空術にも科学では解明できない部分が存在しているのかと推測させられる試験科目もあった。
 
合格者は合計3215名で、実に16倍の競争率であった。
 
結果として、同輩4名が合格し、3名は4月1日に入隊し、小生のみ4ヶ月遅れの昭和18年8月1日に入隊となった。理由は増員に伴い、受け入れ航空隊も土浦空、三重空に続いて鹿児島海軍航空隊を新設して対応したためである。

しかし、兵舎等の建設は一朝一夕にできるものではない。止むを得ず人員を分割して入隊時期をずらす措置がとられた。
 
4月1日入隊 土浦空、三重空、鹿児島空、・・・1960名
6月1日入隊 土浦空、・・・493名
8月1日入隊 鹿児島空、・・・762名 合計3215名

昭和18年8月1日、憧れの鹿児島海軍航空隊に入隊した。しかし、前期入隊者に遅れること4ヶ月の遅れを取り戻すため、我々の訓練期間は、予科練制度の発足以来最短の8ヶ月に短縮されたのである。

鹿児島 海軍航空隊時代 海軍上等飛行兵

入隊早々、南国特有のギラギラと照り返す灼熱の鹿児島空営庭において、陸戦教練をはじめ、水泳訓練やカッター訓練など、息つく暇もない心身の鍛練が実施された。
学科においては、文官が教授する化学、物理、数学に加え、気象学や兵器学科といった詰め込みの教育を受けた。

また、手旗信号はもちろんのこと、モールスによる送受信訓練を始め、課業整列前を活用しての旗旒信号(旗の組み合わせによる信号)の識別、夕食後の温習時間(温習教室での自習時間)の休憩時間を利用してまで実施されるオルジスによる発光信号、一字一句見逃さぬようまばたきせず涙を流しながら受信する発光信号など、空中勤務者としての必須の通信手段の習得は、寸暇を惜しんで徹底的に行われたのである。

入隊後、鍛えられて血の小便がやっと止まった3ヶ月ほど経った頃、操縦と偵察への適性検査が実施され、希望する操縦教程に決定され進むこととなった。従って、操縦分隊と偵察分隊に編成替えとなる。

操縦分隊では、さらに高度な術科教育が実施され、航空力学、機体の構造、操縦装置、発動機等の学科に加え、整備実習とグライダー訓練が行われ、操縦員として必要な知識が詰め込まれたのである。

次々に試験が行われ、理解度が試された。その日習ったことはその日のうちに覚えるのが鉄則であり、夜の温習時間は睡魔と闘いながら、悪戦苦闘の連続であった。

また、座学だけでなく、銃剣術、居合術、拳銃射撃と術科の教習のほか、負け残りの相撲、勝つまでは土俵から降りられないのも海軍相撲の特徴であった。

秋になると、水泳訓練やカッター訓練に代わり10000メートル競争が実施された。これは当日1日だけ走れば良いというものではなく、練習と称して1ヶ月以上も前から同じコースを毎日走るのだ。

そして、1日1日と秒時の短縮が要求され、分隊対抗なので少しも気が抜けない。他にも棒倒しや闘球(ラグビー)など、分隊対抗の競技が目白押しであった。

このようにして心身共に飛行機搭乗員として鍛え抜かれたのである。

そのため、途中で身体の不調を訴え入院する者も増えてきた。退院しても遅れを取り戻すことができずに次の期に編入される者や、回復する見通しも立たず、無念にも志願免除となって帰郷する者も出始めた。

民家に分宿して行われた吹上浜における陸戦演習や、汽車を利用しての霧島神宮参拝行軍など楽しい行事も実施された。リンクトレーナーやグライダー訓練にも熱がこもり、11月になって待望の慣熟飛行が実施されることとなった。
飛行服、飛行靴、それにライフジャケットを着用すれば外見はもう1人前の飛行機搭乗員である。

搭乗順番が待ち遠しいこと。三式初級練習機は次々に離着陸を繰り返し、ついに順番がきた。自分の名前の書かれた搭乗割黒板に斜線を入れ、地上指揮官に出発を報告して搭乗機に早駆けで走る。

プロペラの風圧を避けながら搭乗し、座席バンドを締めて伝声管を繋ぐ。
「伝声管をためします、教官聞こえますか!」「ヨーシ、聞こえる。バンドは締めたか・・では出発する・・・」チョーク(三角形の車輪止め)を払って離陸点に向かう。

ゴーッと爆音が高くなり、機はスピードを上げてあっという間に空中に浮かぶ。町並みや電車が見る見る小さくなり、高度をとるに従い一段と素晴らしい展望となり、桜島の噴煙を下に見ることができる。

ヤッター、ついに念願の大空を飛んだのだ。
この感激は一生忘れられないものである。


初めて空を飛んだ   熟練飛行


急に爆音が静かになる。左前方に飛行場が傾いて見え、ぐんぐん地球が盛り上がってくる。いよいよ着陸である。アレヨ、アレヨと言う間に慣熟飛行は終わった。

そして1人ひとりが格納庫前の三式初級練習機をバックにして初飛行の記念写真を撮影したのである。

ソロモン群島方面の激烈な航空戦は、我々の訓練の厳しさにも反映され、楽しみにしていた休暇は後期生には付与されず、昭和18年はギリギリまで教育訓練が実施された。

明けて昭和19年、なおも訓練は続けられ、ようやく軍人らしくなったところで1週間の休暇帰省が許可された。階級も2月1日付けで『海軍飛行兵長』に進級していた。

ちょうど休暇帰省前、突貫工事で増築されていく営庭の東側兵舎に、松江中学時代の4期先輩で柔道部の主将であった松江出身の古荘氏が予備学生として入隊してきて、ふとした巡り合わせで知り合うことができたが、休暇帰省中に移動し、いくら探しても面会できない人もいた。

卒業間近になると艦務実習(軍艦に乗っての航海実習)があるのだが、甲12期の場合は前期11期の偵察組が戦艦「陸奥」に乗艦中に爆沈事件があり、土浦甲11期生134名が死亡したため、甲12期の艦務実習は中止となった。

隊内の小川1つ隔てた隣接の桜島航空隊の飛行場では、先輩の甲飛10期生で編成する虎部隊、ゼロ戦の尾部に黄色のしま模様を入れた戦闘機隊が盛んに空戦(巴戦、格闘戦)の訓練を行っている様子を上空に見上げながら、我々の訓練は続く。

早く彼らのように1人前のパイロットになりたいと、我が血は騒ぐのである。

ついに鍛え抜かれた我等甲飛12期生の予科練の卒業が3月25日となった。

教育期間
前期生:昭和18年4月1日入隊・19年3月23日卒業・・12ヶ月教育
中期生:昭和18年6月1日入隊・19年3月25日卒業・・10ヶ月教育
後期生:昭和18年8月1日入隊・19年3月25日卒業・・8ヶ月教育

幸いなことに予科練過程のみ短縮され、飛行術練習時間や昇進等は前期生と変わらず、前期生からのやつかみも雑談時に出ることがあった。7つボタンの第一種軍装に身を包み、鍛え抜かれた者のみが持つ独特の威光を感じる雰囲気の中、血みどろになって鍛えられたこの鹿児島海軍航空隊の営庭で卒業式が行われたのである。

主な海軍航空隊一覧 (赤丸は父の所属した部隊)

即日、操縦員は谷田部航空隊、水上機操縦員は天草航空隊、小松島航空隊へ、偵察員は大井航空隊と上海航空隊に、我等甲飛12期生、在隊者全員の「帽振れ」に見送られて転属の途についたのである。  

投稿者のコメント:17歳という若さの意気込みや努力、喜びが感じられる文章でした。しかし、それは「軍事訓練」という世界でのことでした。

そして、父が入隊する1年以上前の1942年(昭和17年)6月5日から7日にかけて、ミッドウェー海戦で海軍は大打撃を被り、多くのパイロットを失っています。この事実は、国民や兵士にどのように伝わっていたのでしょうか?

海軍が予科練習生を1年で競争率16倍という中、3215名も次々と合格させていくという事実に、今、我々は注目しなければなりません。見逃してはなりません。


あなたはどのようにお感じになりましたか?

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回へと続きます。

もくじ

はじめに 「藻屑録」

序 章  「地球は廻っている」

第一章  「海軍甲種飛行予科練習生」

第二章  「第37期飛行術練習生」

第三章  「艦上爆撃機専修練習生」

第四章  「彗星艦上爆撃機錬成員」(前編)

第四章  「彗星艦上爆撃機錬成員」(後編)

第五章  「関東の雄・K3」

第六章  「出撃下令」

終 章  「事後情報分析からの考察」
おわりに 「二つの命日」
資 料  「あの日の電信の意味するもの」


※ note掲載にあたって

この父の手記は、1990年(平成2年)頃から1995年(平成7年)頃に、父がワープロで当時の記憶をたどりながら、各種文献を基に記したものです。現在では、不適切な表現や誤った表記があるかもしれません。
また、歴史的検証や裏付け調査研究等は不十分です。その点をご理解の上、お読みいただければ幸いです。


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