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トランプ大統領の言葉が呼び起こす 1989年 米軍パナマ侵攻 暴かれた真実

私が見たあの頃のパナマとアメリカ “複雑な関係性” 

今から36年ほど前、1989年12月20日の深夜、米軍によるパナマ侵攻が突如として始まりました。

この軍事侵攻は、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が麻薬密売者のノリエガ将軍逮捕を口実に行いましたが、その背後にはパナマ運河の支配を維持する狙いがありました。
この侵攻は、国際社会に大きな波紋を呼び起こしました。

侵攻から1年3ヶ月後、私は勤務でパナマに住むことになり、3年間を過ごしました。その際、街にはまだ侵攻の爪痕が色濃く残っており、人々の心にも深い影響を与えていました。

そして、36年程が経った今、トランプ大統領の言葉があの軍事侵攻の事実を突然思い起こさせました。

「パナマ運河を取り戻す」

1991年頃のパナマとアメリカの関係を振り返り、「世界の十字路・パナマ」を改めて見つめ直したいと思います。

※ 上記のタイトル写真は、勤務上の前任者が1990年1月3日(火)にパナマ市内で撮影。この日は、アメリカ軍がノリエガを拘束した日にあたります。

今も パナマ運河を航行する 数々の貨物船


暴かれた真実 1989年米軍パナマ侵攻

標記のような報道テレビ番組が、「NHKスペシャル」として1993年6月11日に放送されました。その番組紹介文は次の通りです。

1989年12月19日、米国は麻薬密売者のノリエガ将軍逮捕を口実にパナマに侵攻した。報道管制の陰で何があったのか。自由と民主主義を標榜するアメリカが独立国パナマに対し、国際法違反を犯したということなど真実に迫る。(※ 原文のまま掲載)

(NHK デジタルアーカイブス HPより引用)

私は当時、この番組をほぼ放送1ヶ月後に、日本から送られてきたビデオテープで視聴しました。パナマ湾を見渡せる自宅アパートでの視聴でした。

(このVTRを視聴した3年半前の深夜、米軍の放ったミサイルが、自宅の前のパナマ湾の上空を、左側の窓から右へと、最下層の貧しい人々が肩を寄せ合って暮らしていた場所の一つである、チョリージョ地区をめがけて飛んで行き、数多くの人命が失われた事実が映像で報道されていました。)

パナマに住んで2年が過ぎた頃のこのVTRとの出会いでした。

米軍の「パナマ侵攻」については知っているつもりでしたが、攻撃を受けたパナマの人々と攻撃を行ったアメリカ側の証言の大きな乖離、そして逃げ惑うパナマの民間人の映像に衝撃を受けました。

爆撃されたチョリージョ地区の一部分

今回、このブログを投稿するにあたり、自宅の古いVHSデッキでこの「NHKスペシャル」を再度視聴しました。


避難するパナマ市民たち

その中で、この番組が同年(1993年)のアカデミー賞ドキュメンタリー部門受賞作品を元に編集・構成されたものであることが分かりました。(NHKアーカイブスでの放送予定は、現在のところありませんでした。)

タイトル原文:“ The Panama Deception ”  日本語直訳では「パナマの欺瞞」

65th Academy Awards (1993)
Best Documentary (Feature)
The Panama Deception – Barbara Trent and David Kasper (91min.)
Produced by Empowerment Project (1992, USA)
Produced and Directed by Barbara Trent

英語文でのネット検索結果

受賞作品の紹介   “ The Panama Deception ”
オリジナル版は91分のビデオ作品(英語版)

※ YouTube より通知あり : 年齢制限があります(コミュニティ ガイドラインに基づく設定) <オリジナル英語版の視聴可能>

NHKでは、50分番組に日本語で編集・構成されて放送されました。

「NHKスペシャル」の番組内容を要約しましたので、ご紹介します。

NHKスペシャル
暴かれた真実 1989年 米軍パナマ侵攻(要約)


プロローグ

1989年12月20日、アメリカ軍は麻薬組織のノリエガ将軍を逮捕する名目でパナマに侵攻しました。

兵力26,000人を投入し、民間人を巻き込む大規模な攻撃が行われ、多くの死傷者を出しました。

アメリカはこの作戦を成功と見なしていますが、その真の目的は国益に関連するものであり、報道管制によって、多くのアメリカ国民はそのことに気づかなかったのです。

このドキュメンタリーは、当時の関係者や専門家の証言を通じてパナマ侵攻の裏側を明らかにし、1993年のアカデミー賞ドキュメンタリー部門賞を受賞しました。

本編

侵攻の準備は1989年12月19日から密かに進められ、翌20日に攻撃が開始されました。激しい攻撃は3日間続き、多くのパナマ市民が犠牲になりました。

アメリカのメディアは政府の発表に従い、ノリエガに焦点を当て、犠牲者については無視しました。

パナマとアメリカの関係は運河を巡る利権に根ざしており、1903年にアメリカの支援でパナマは独立しました。

1977年には運河の主権を返還する条約が結ばれましたが、保守派の反発が強かったのです。

ノリエガは1989年の大統領選挙で勝利を狙いましたが、アメリカは反対派を支援し、選挙は混乱に終わりました。

パナマ国防軍内の反ノリエガ派の将校たちがクーデターを試みるも失敗し、アメリカは新たに兵力を派遣しました。

最終的に、12月16日の衝突をきっかけにアメリカはパナマ侵攻を決定しました。

侵攻では27カ所が同時攻撃され、首都パナマシティでは国防軍本部が主要な標的となり、周辺の市民も無差別に爆撃されました。

アメリカ軍は新開発のハイテク兵器を使用し、ステルス戦闘機やアパッチヘリ、レーザー誘導ミサイルなどの実験場とした結果、さらなる市民の犠牲が出ました。これらの新兵器は、一年後の「湾岸戦争」で本格的に使用されることになります。

アメリカ国防総省は侵攻の際、16人の報道陣を派遣しましたが、彼らは侵攻開始から4時間後に入国し、36時間は基地から出られませんでした。
報道陣は政府の意向に沿った場所にしか連れて行かれず、パナマの実情は隠されました。

避難するパナマ市民たち

独自取材を試みたジャーナリストは阻止され、多くのジャーナリストが逮捕されました。その結果、侵攻直後の状況を伝える映像はほとんど残されませんでした。

侵攻後、アメリカ軍は新たに就任したパナマ政府と共に鎮圧政策を実施し、公共施設や大学を支配しました。

何千人もの人々が逮捕され、法的根拠もなくブラックリストに載せられました。

約2万人が家を失い、特に貧困層が大きな被害を受けました。パナマでの死者数は2500人から4000人と見積もられ、アメリカのメディアは市民の犠牲を軽視して報道しました。

パナマ侵攻はアメリカ国内では支持されましたが、国際社会からは非難されました。国際法に違反し、無差別攻撃を行ったと指摘されています。

ブッシュ大統領は民主主義を守るための侵攻と主張しましたが、実際にはパナマ国防軍を壊滅させることが目的でした。

1991年3月、エンダラ大統領は憲法改正を行い、ノリエガ時代の国防軍を廃止し警察組織に改編しました。

これにより、パナマには軍事力がなくなり、運河の警備はアメリカ軍に依存する状況が生まれました。

エピローグ

この作品は、アメリカの侵攻が単にノリエガを逮捕するためだけでなく、運河の管理権を再びアメリカに引き戻す目的もあったと示唆しています。

クリントン政権下では、経済的な価値が高まる中でパナマ運河の重要性は変わらないとされ、返還問題が今後の重要な課題になる可能性があります。(※ 1993年時点でのコメント)

その後、世界情勢は冷戦が終結し、西半球の安全保障の要であったパナマ運河周辺の米南方軍の存在意義も薄くなってきました。

そこで、クリントン政権は、99年12月末、「トリホス・カーター条約」で約束されていたパナマ運河と米軍基地はパナマに返還されたのです。

現在のパナマ市街

しかし、1999年の返還までには、まだ遠い道のりが残っていたのでした。

ブッシュ大統領のパナマ訪問 1992年6月11日

パナマ侵攻の2年半後、ブラジル・リオデジャネイロで開催されている「地球サミット」参加の旅の途中で、5時間という短い時間でしたが、パナマを公式訪問しました。
迎えたのは、パナマ侵攻当時からのエンダラ大統領でした。

El Presidente George H. W. Bush y El Presidente Guillermo D. Endara

パナマ侵攻を直接命令した大統領が初めてパナマを訪問することから、この日は国家的大イベントとなりました。

パナマ国内は親米派と反米派、親エンダラ派と反エンダラ派に真っ二つに割れ、ブッシュ大統領の訪問は注目を集めました。

パナマ市内の全ての学校は、不測の事態を考慮して臨時休校措置を取りました。
息子たちも休校となり、自宅のベランダから、遠くを通過するアメリカ大統領専用車「ビースト」をテレビ中継と共に待ちかまえていました。
空には、数機のヘリコプターも舞っていました。

ブッシュ大統領を乗せたエアフォース・ワンは、無事にパナマに到着し、歓迎セレモニーと共に、大統領官邸での昼食会が行われました。しかし、ここまでは順調でしたが、予期せぬ事態が発生しました。

歓迎するパナマ市民 Plaza Porras広場

ブッシュ大統領のスピーチが行われるPlaza Porras広場(現:Parque Belisario Porras公園)でのことです。大統領のスピーチということで、会場周辺は厳重警戒態勢のもとでセレモニーが始まりました。

会場内の聴衆は当然、親米・親エンダラ派の人々ばかりでした。そして、厳重に取り囲むパナマ警察機動隊と大統領のSPたちがいました。

さらに、バリケードの外には反米・反エンダラ派の多数の市民が集まり、大声で叫んだり、制止する機動隊に対抗したりと、大混乱状態でした。
2年半前のアメリカ軍の攻撃で命を失った人々の魂の怒りが聞こえてくるようでした。

反米派のパナマ市民 と 制止する機動隊

会場でのセレモニーは歓迎の拍手の中、粛々と進められていましたが、Omaria Correaパナマ市長の歓迎スピーチが途中で止まってしまいました。

ステージに登っている多くの人々が目頭を押さえ始めたのです。原因は“催涙ガス”でした。

催涙ガスで目頭を押さえようとする ブッシュ大統領(中央)

デモ隊を制止するために放たれた催涙ガス弾のガスが風に乗って会場まで入ってきたのです。

これにより、会場は一気にパニック状態に陥り、ブッシュ大統領はSPに護衛されながら「ビースト」に乗り込み、アルブルック米軍基地へ移動しました。

ブッシュ大統領 と 大統領専用車を警護するSPたち

結果的に、Plaza Porras広場でのブッシュ大統領のスピーチは中止となりました。

その後、アルブルック米軍基地内でアメリカ軍関係者やパナマ政府要人へのスピーチを終え、サンパウロへ向けてパナマを去って行きました。

スピーチ会場を去る ブッシュ大統領(中央 奥)

皮肉なことに、このアルブルック米軍基地の格納庫は、パナマ侵攻当時、米軍の爆撃を受けて家を失った人々の避難キャンプが設営されていた場所だったのです。

このような出来事からも、パナマとアメリカとの「パナマ運河」を介した複雑な関係性が理解できるのではないでしょうか。

この関係は、2025年のアメリカ大統領の言葉にも如実に表れています。

最後に、3枚の写真をご覧ください。こちらは「パナマ運河庁舎」の建物です。

これらの写真は、パナマとアメリカの関係の変遷を端的に表しています。

「パナマ運河条約」下の「パナマ運河庁舎」
「トリホス・カーター条約」による管理権移譲中の「パナマ運河庁舎」
(撮影:投稿者本人)
「トリホス・カーター条約」による完全移行後 現在の「パナマ運河庁舎」

国旗の左右と数の違いでお分かりいただけると思います。

2国の国旗を掲揚する際のルールとして、一般的に門外から見て左側を上位とするのが慣習です。
2025年のアメリカ大統領は、どのような選択を望むのでしょうか?

パナマ運河 運用75周年 記念切手(見本)

最後まで、長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

次回は、パナマの実生活の中でのアメリカを探ってみたいと思います。

「パナマ侵攻 背景と爪痕」です。

またお会いしましょう!


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