江戸使節団のデジタル追跡 パナマ地峡を渡ったサムライたちの旅 第二話
2.La estrella de Panamá社の1860年4月30日の記事の読み込みと翻訳作業
来年の3月には日本帰国という1993年末頃に、パナマの主要新聞社である「La estrella de Panamá社」から江戸の遣米使節団の記事が掲載されている1860年4月30日発行のバックナンバーの閲覧と写真撮影の許可がおりました。さっそく、接写レンズと一眼レフのフィルムカメラを持って、「La estrella de Panamá社」の書庫に出かけました。
そもそも、江戸末期の日本には活版印刷の新聞は発行されておらず、蒸気機関車も走っていなかったのですからパナマの発展ぶりには驚かされます。これには、航海術の進歩、イギリスの産業革命、アメリカのゴールドラッシュなどの世界史上の出来事が大きく影響しているのです。
話を戻しましょう。いよいよ、記事の撮影開始です。1860年発行の新聞だけあって、紙も赤茶けており所々テープ補修が施されていました。もう一生この新聞を目にすることはないだろうと思いながら、時間が許す限りリングフラッシュ付の接写レンズで撮影していきました。
しかしながら、帰国後は、日々の仕事に忙殺されこれらの貴重な資料はお蔵入りとなりました。
そして30数年後、IT時代の到来と共に、再びこれらの資料にスポットライトが当たり始めました。フィルムスキャナー、レタッチソフト、オンラインOCR機能、AI翻訳機能(日本語⇔スペイン語)を使ってのスペイン語記事の読み込みと翻訳作業の開始です。
まず、赤茶けたスペイン語の記事のカラー写真をレタッチソフトでモノクロ写真に変換しました。次に、コントラスト、ふちどり、鮮明度を調整し、より読みやすくしました。その後、スペイン語対応のオンラインOCR機能を使用して、写真の文字をデジタル文章に変換し、さらに編集。最後にAI翻訳を用いて、日本語に翻訳しました。
こうして、1860年 4月 30日(月)のLa estrella de Panamá紙が活字になったのです。(かなり不鮮明ですが、OCRはスペイン語を読み取ってくれました。)
La Estrella de Panamá
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Boyd &. Power - Propietarios.
Lunes,30 de abril de 1860.
Los Embajadores Japoneses.
En la mañana de ayer 25 desembarcó en el muelie del ferrocarri la Embajada japonesaisu numerosa comitiva, llegada a nuestro puerto el 24 en el Powhatan. Una gran concurrencia entre la cual se notaban las primeras autoridades del pais, el cuerpo consular i un infinida e ciudadanos distinguidos, de ellas siltiles, i la tropa veterana,vestida de gala, i desplegada en guerrilla en dos álas a lo largo del mencionado muelle,
esperaban a los japoneses con cierto grado de avidez.
Pero cuan pronto cesò el interes que habia demostrado nuestra poblacion por conocer a los nobles Embajadores del Japon!
Sin duda que eraban encontrar en ellos algo nuevo, algo digno de grabar en su imajinación, i se llevó buen chasco, pues que los japoneses no son otra cosa que unos chinos con la apariencia de mas civilizados.
Los japoneses tienen casi la misma fisonomía que los celestiales; visten casi del mis.
mid modo; es decir grotescamente, i el molo de peinarse es mui semejante al de aquellos; con la sola escepcion de que no usan trenza.
Eu vez de este adorno femenil se recojen el pelo en un moño de dos tres o pulgadas en la parte superior de la cabeza, el cual estienden ácia la parte delantera, sobre la calva que se forman por medio de la navaja.
Su porte es algo lleno de dignidad, pero no marcial; así es que en vez de la estraña espa da idaga que llevan al cinto,les asentaria mejor el abanico que algunos de ellos manejan con la destreza de una mujer.
Algunos de los japoneses tienen maneras desembarazadas, i otros vimos con rostros que revelaban un grado superior de intelijencia.
La Embajada japonesa la componen sujetos escojidos entre la flor i mata de la nobleza del Japon, los cuales se distinguen por sal carácter comunicativo, por su intelijencia, sú atencion i su curiosidad por verlo i conocerlo todo. El personal de ella asciende a 72 individuos con el rango siguiente:
Dos Embajadores Plenipotenciarios, que pertenecen a la mas alta nobleza del Japon; dos agregados mas de casi igual rango; un Censor, un Vicegobernador, seis oficiales o secretarios i 60 individuos mas entre médicos, intérpretes, oficiales dependientes del Vicegobernador i del Censor,i sirvientes &c.
Las funciones del Censor i Vicegobernador es la de observar la conducta de la Embajada, i dar parte de ella a su Gobierno, como tambien de comunicarle todo lo que vean digno de mencion.
Hè aquí los nombres de algunos de los miembros de la Embajada: Simme Bujen-no-kami,primer Embajador; Muragake Awage-no-kami, segundo id; Ogure Bungo-no-kami, Censor; Morita Okaaro, Vicegobernador; Naruse Gensiro Skahara Ihugoro, ngregados a la Embajada; Hetaka Keisaburo i Osakabe Tetstaro, agregados al Censor; Namura Gohatsiro, primer intérprete; i Tuteish Tokuyure i Tateish Onagero, segundos id.
Ademas encontramos los de tres doctores en medicina llamados, Mendake, Morayama i Cowasaki, i los de otros mas que no mencionamos por no fastidiar a los lectores con nombres tan estraños a nuestros oidos.
Poco despues de las 8 salió la Embajada para Colon acompañada de las autoridades de esta ciudad, i de los señores cónsules es tranjeros. Al llegar a San Pablo hizo alto el tren especial qué la condueia, se apearon todos, i todos juntos se dirijieron a una vasta mesa donde les esperaba un rico refrijerio
que nadie desdeñó. Una hora mas de camino los puso en Colon, e inmediatamente fueron trasbo.dados al vapor de guerra americano Roanoke que los ha de llevar a los Estados Unidos, el cual salió hoi por la mañana
para Portobelo a hacer agua, de donde seguirá para Nueva York.
Que tengan un feliz viaje!
(上記の1860年のスペイン語による記事を読むと、現代では、不適切な表現がある。しかし、当時の受け止め方を理解するために、あえて文章を残した。両国の友好関係のために悪意のないことだけは伝えておく。
Leyendo el anterior artículo de 1860 en español, algunas de las expresiones resultan, en nuestros días, inapropiadas. Sin embargo, nos hemos atrevido a dejar el texto para entender cómo fue recibido en su momento. Sólo puedo decirles que no hay mala intención en aras de las relaciones amistosas entre ambos países.)
(以下、ChatGPT利用)
1860年4月30日のLa estrella de Panamá紙の記事概要
1860年4月25日の午前、日本の遣米使節団がパナマ港の桟橋に上陸しました。多くの地元の市民や政府関係者、領事、そして兵士たちが集まり、好奇心をもって彼らを出迎えました。しかし、初めの期待とは裏腹に、地元の人々は日本の使節団が中国人に似ていると感じ、少しがっかりした様子でした。彼らの服装は少し奇妙で、髪型は前の部分が剃られ、後ろで髷(まげ)を結っていたことが特に目立ちました。
使節団は礼儀正しく、知的で好奇心旺盛であり、特に高い階級の者たちが参加していました。使節団には大使、随員、検閲官、副知事、医師、通訳、その他の役人や使用人を含む72名が含まれており、それぞれの役割が明記されていました。
桟橋近くの鉄道駅から、彼らは特別列車でコロンへ向かい、途中サンパブロフ駅で休憩して食事を楽しみました。コロン到着後そのまま、アメリカ軍艦「ロアノーク」に乗船した。翌日ポルトベーロで給水し、ニューヨークへ向けて出発する。よい旅を! (以上。ChatGPT利用)
記事内容の詳細な説明は後に譲りますが、新聞記事の掲載内容と使節団が記録した複数の文書を比較しても大きな事実の食い違いはありませんでした。それ以上に、日本の文化や人々とパナマの文化や人々の歴史的接点はあまりにも奇妙な遭遇だったようです。さらに、サムライたちの好奇心や観察力は旺盛且つ繊細で、たった一日の鉄道によるパナマ地峡の横断旅行でしたが、様々な物事を見聞し体感していったのでした。
このように、デジタルによる遣米使節団の追跡は、パナマ・日本両国サイドの視座からこの歴史的遭遇を、出来るだけ客観的に俯瞰することができました。
一方、ここまでの調査・研究の過程で、一つ記述の相違点が見つかったのです。それは、使節団が記録した日付とパナマの新聞記事の日付に一日のズレがあったのです。江戸時代には、「太陰太陽暦(旧暦)」と呼ばれる暦が使用されていました。よって、サムライの日記によれば、パナマに上陸した日付は、旧暦の万延元年閏3月6日、新暦(太陽暦)では1860年4月26日にあたるのですが、地元新聞は、1860年4月25日と記載しています。なぜでしょう?どちらかが間違っているのでしょうか?
結論。両者とも間違っていなかったのです。サムライたちは太平洋を渡る際、いわゆる『日付変更線』を越えました。日付変更線とは、地球上で日付が変わる場所のことで、主に太平洋上にあります。たとえば、もし日本で4月1日に出発し、飛行機でアメリカに行った場合、日付変更線を越えると、アメリカに到着したときの日付は3月31日になってしまいます。これが「一日のズレ」の原因です。
江戸時代のサムライたちは、ポーハタン号で太平洋を渡り、パナマに到着しましたが、この日付変更線を越えたため、彼らが上陸したと記録した日付(4月26日)と、パナマの新聞に掲載された日付(4月25日)にズレが生じたのです。これは、どちらも正しい日付であり、日付変更線を越える長い旅ならではの現象なのでした。
今後のこの研究発表も、パナマ現地時間で表記していきます。ご注意ください。
実に、グローバルで興味深い逸話ですね。今回はここまで。
第三話に続きます。
3. Google Earthを利用して江戸使節団の足跡をマッピングする
もくじ
はじめに (第一話)
1.江戸使節団のデジタル追跡ツール登場 (第一話)
2.La estrella de Panamá社の1860年4月30日の記事の読み込みと翻訳作業
(第二話)
3.Google Earthを利用して江戸使節団の足跡をマッピングする
(第三話)
4.パナマ地峡鉄道 アマチュア研究者との情報交換から
(Facebookの活用)(第四話)
① パナマ地峡鉄道の旅 パナマ上陸 旧パナマ駅へ
(Facebookの出番です) (第四話)
② パナマ地峡鉄道の旅 驚愕の蒸気機関車 (Facebookの活用)
(第五話)
③ パナマ地峡鉄道の旅 湖の底に沈んだサンパブロ駅
(Google Earthも使って)(第六話)
④ パナマ地峡鉄道の旅 アスピンウオール駅到着 (第七話)
5.サムライたちが教えてくれたこと (最終話)
・江戸の遣米使節団とパナマ地峡の物語が幕を閉じる
・エピソード1: サンパブロ駅での豪華な食事
・エピソード2: ポルトベーロでの危険な沐浴
・帰国後のサムライたち
・サムライたちからのメッセージ
・付記
付記
研究協力者:Colaboradores en la investigación:
Sr. Nodier García
出典:Fuente:
小栗忠順の従者 佐藤藤七の記録「渡海日記」© 東善寺
小栗忠順の従者の記録 名主佐藤藤七の世界一周 © 東善寺
小栗忠順の従者 通訳 木村鉄太の記録「航米記」© 青潮社
万延元年遣米使節団 副使 村垣範正 「遣米使節日記 復刻版」© 日米協会
万延元年の遣米使節団 宮永 孝 ©講談社
山本厚子「パナマから消えた日本人」 ©山手書房社
La estrella de Panamá社
画像提供:Imagen cortesía:
El sitio de la Biblioteca Rodolfo Chiari de la Autoridad del Canal de Panamá
Lic. Mickey Sánchez
Sr. Eardweard Muybridge
Sr. Theodore da Sabla
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