五輪選手「衛藤昂」の栄光と挫折
1. 「最大の負け試合」
私は小学3年生から陸上競技を始め、2016年にはリオ五輪、2021年には東京五輪に出場しました。30年の人生のうち3分の2を競技に費やし、人生における最高の瞬間も最大の失敗もすべて競技を通じて経験してきました。
長い競技人生の中での最大の失敗は、高校1年時のインターハイ地区予選であったと感じています。客観的に見れば、「無名の選手が記録を残せずに終わった」ただそれだけの試合ではあるのですが、自身の意識を変えアスリートとしての礎を作り上げるきっかけとなった「最大の負け試合」であったと感じています。
中学での走り高跳びの成績は、県大会3位が最高位であり、高校入学時の目標は、「可能であれば全国インターハイに出場すること」でした。あくまで「可能であれば」のレベルであり、意識のレベルは低く、先輩や同級生と楽しくやることを優先するような姿勢でした。そんな中、入部直後に行われたインターハイ県予選を予想外にも突破することができ、目標もないまま地区予選に駒を進めることとなりました。駒を進めても今までと同じ意識で練習に取り組み本番に臨みました。
迎えた当日、競技場に足を踏み入れると、体格の良い選手や強豪校のユニホームが目につき、完全に萎縮しました。なにより本気でインターハイを目指す選手の気持ちに、試合前から自分の甘さを感じていました。結果的に、他人の動きや仕草ばかりを見て自信をなくし、気がついたら24人中24位に終わっていました。
力がないことは納得できました。しかし、必死にならなかったこと、万全の準備で競技に臨まなかったことに強い後悔が生まれ、来年この場所でリベンジすることを誓い、競技場をあとにしました。
それからの1年間は、インターハイ地区予選でリベンジすることだけを考えて練習に励みました。課題を克服するためにマイナスのことは断ち切り、プラスとなることはひたむきに取り組み、迎えた1年後は3位に入賞を果たし、目標の全国インターハイにも出場することができました。
私はこの経験から、「強く思うことの大切さ」と「諦めず挑戦し続けることの大切さ」を学び、その競技人生は、この1年の延長線上であると感じています。強力なライバルの出現や、怪我や技術的な不調など、様々な困難は訪れましたが、立ち上がり挑戦し続けることで1つ1つ乗り越えてきました。そして10年後、オリンピック出場をかけた日本選手権が同じ競技場で行われ、一世一代の大勝負をものにし、夢の舞台への切符を手にすることができました。
2. 「新型コロナウイルス」
2020年3月、同年7月に開催を予定されていた東京五輪に向けてトレーニングを行っていましたが、新型コロナウイルスの影響で大会延期が決まりました。
延期が決まる前は、東日本大震災からの復興五輪として国民の期待を背負い、アスリートは復興のシンボルとされてきましたが、状況は一変しました。スポーツは不要不急、アスリートは県を跨いで移動する人という認識に代わりました。五輪中止に向けたデモも頻繁に行われるようになり、それまで「スポーツはみんなを元気にする力がある」と信じて疑わなかったのですが、「スポーツの価値って何だろう。自分の価値って何だろう」と考え始めるようになりました。
自らの人生を振り返って、競技力や試合の駆け引きなど、アスリートとしてのスキルを磨いてきましたが、これらはビジネスの場で活かせるものではありませんでした。人生の大半をスポーツの世界で生きてきて、ビジネスの世界に対して劣等感しかありませんでした。
そんな中、とあるビジネススクールに出会い、そこで「志に関するセミナー」を受講しました。当時は「劣等感の塊」のような状況でしたので、藁にもすがる思いで、セミナーの講師に劣等感について質問をしました。すると講師から「劣等感を抱くことなどまったくない。むしろ何万人の観客の前でプレーする経験ができる人はごくわずかであり、その分野でトップになった経験は何物にも変え難い強みです」というメッセージをいただきました。
競技のスキル習得に至ったプロセスは自らの強みとして活かせるのではないか、18年間の競技生活で培った経験を「感覚」で終わらせるのはもったいない。競技終了後のキャリアやビジネスの世界でその強みを「再現性・有用性」あるものにしていきたいと思いビジネススクールに入学をしました。
3. 「一般社団法人の設立」
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