高価な教材より大切なこと
幸せになる勇気 No10 尊敬のボールはどこにあるのか?
尊敬は強要することがでしない、しかし、生徒たちを尊敬しろ、「これを矛盾と呼ばずして、なにを矛盾というのです!?」と青年。
哲人の答えは?
尊敬のボール
青年の疑問を受け止めつつ、哲人は言います。「尊敬のボールは、自らがそれを投げた人にだけ、返ってくるものだと。〜壁に向かって“ボールをよこせ”と叫んでも、なにも起こらない」
哲人の例えはわかりやすい。しかし、青年はひるみません。「そうはいきません。ボールを投げる“わたし”の尊敬は、どこから生まれるのです?」
そもそも、ボールがないから投げれない…。青年…。それは、魂の叫び。自分には投げかけられる尊敬がない…。
共同体感覚、再考
ここで哲人は、共同体感覚という概念を持ち出します。アドラーの教えの中でも物議をかもしたあの、概念。嫌われる勇気でも書きました。
アドラーがこの言葉を英訳する時、community feelingやcommunity senseではなく“social interest”としました。なぜか?
それは、「“共同体感覚”という概念を、より実践に即した行動指針に置き換えた。抽象を具体に置き換えた。その具体的な行動指針こそが、“他者への関心”という言葉」だというのです。
この指針に従っていけば、自ずと共同体感覚に至る。
ここでもまだ納得がいかない青年。「その議論がすでに抽象的なのですよ!」と噛み付きます。
関心の所在
「きわめて論理的な帰結です」と哲人は言います。どういうことか…。それは…
“他者の関心事”に関心を寄せる
と、言います。親も含め、教育者たちは、自分たちがそこに価値を認めたものだけを与えようとする。
よくわかります。高価な教材やエビデンスのあるメソッド、実績、自分のプロフィール、そんなものでしょう。
「しかしこれは、いっさの“尊敬”を欠いた、こどもとの距離を遠ざけるだけの行為」と哲人は断言します。
ではどうしたら良いか?それが、
“他者の関心事”に関心を寄せる
です。どんなに低俗な遊びであろうと、まずはそれがどんなものなのか理解しようとする。自分自身がそれを楽しむ。「そのときはじめて、〜ひとりの人間として“尊敬”されていることを実感するでしょう」と哲人は言います。
自分の中に投げるボールが無くても良いのです。そのボールは、すでに相手が持っている。だから、借りれば良いのです。そのボールに関心を持って。
哲人は言います。
「これはあらゆる対人関係で求められる、尊敬の具体的な第一歩です」と。
では、また。