なぜ、アドラー心理学か?
アドラーと一緒に考える発達障害 No2
一般臨床心理士
一般臨床心理士というのがあるか分かりませんが、つまりは、基本的な心理臨床の知識を身につけ資格を得た心理士です。それだけでは、もちろん、社会では役に立たず、修行が必要になります。
どこで働くかにもよりますが、主に、1.心理療法、2.心理アセスメント(心理検査含む)、3.地域支援(ケースワーク含む)、4.研究、これが臨床の4本柱と習います。
その中でも1.心理療法は、もちろん重要なファクターで、2.心理アセスメントにも通じる自分の中の軸を作る部分をなると思います。やはり何かの方法論を軸に臨床をしていくわけです。11年目の私は、臨床動作法という目的的なからだの動きである動作を介した日本初の珍しい心理療法を専門としています。その方法は資格取得以前から勉強実践してきた方法で今でも武器になっています。
アドラー心理学に出会って
そんな私が、数年前に出会ったのがアドラー心理学。もちろん、アドラーは知っていましたが、なぜ、数年前にビビッと来たのか。
多分…、矛盾と一致の組合せです。
課題の分離という考え方と共同体感覚という到達点の一見しての矛盾と最終的な一致に魅力を感じたのかもしれません。
両者ともとても難しい概念であり、解説をした「嫌われる勇気」の中でも、勇気づけや貢献感と並んで、最後まで多くの文字を割いて説明されていました。
課題の分離と共同体感覚とに惹きつけられて
私は、まだまだ未熟な臨床経験の中で、”課題”という言葉にとても惹きつけられます。もちろんそれは、自分の課題であり相手の課題。だから、課題の分離として、各々の課題の重要性を明確に打ち出しているアドラーの教えにまずグッときたのだと思う。
しかし、一方で、”同じ釜の飯を食う”的な思想も嫌いじゃない。もともと野球部だったこともあるし、昔から、家族が多かったり、サマーキャンプ的な活動に参加してきたこともあると思います。同時性とか一体感とかそういった感覚にも親しみがある。アドラーは、共同体感覚として、さらに大きな括りでそれらを捉えています。ここにもグッときた。
個別化と全体論という魅力
そう、面白いのは、個別と全体が同じ平面上で語られている点。個別でありながら全体。分離と共同体とが同じ所に在る。ここに面白さを感じたのではないかと思います。
心理療法では、”中立性”という考え方があります。これは、セラピストの立ち場を顕す1つの観点です。セラピストとクライエントは別々の人間である。であるから、セラピストはクライエントに無条件に傾倒してもいけないし、距離を取り過ぎてもいけない。自分の中に生れる生の感情には開かれながら、揺れながらも、目の前にいるクライエントの世界をただただ認識するように努める。
この作業、結構、掴み処がないのです。
その辺り、アドラーは、あくまでもクライエントの課題に踏み込まないという距離感を保ちつつ、しかし、同じ共同体という中での貢献を目指す。
臨床や人生の中で、絶妙な立場を取れる方法ではないかと思います。
当然、簡単ではない。でも、そのエッセンスを臨床の中に取り入れていきたい。もちろん、生き方の中にも。