クラウゼヴィッツ「戦争論」読んだフリ。Part②
みなさんこんにちは。1976newroseです。
2024年は、元旦からつらいニュースが飛び込み、心を痛めております。
本年がいい年になりますことを、心より祈念いたします。どうぞ宜しくお願いいたします。
さて、近代的な戦争哲学の中でも、最重要著作のひとつとして知られる、クラウゼヴィッツ「戦争論」。
超有名な本書ですが、通読された方はごく少ないのではないでしょうか。
そこで「戦争論」読んだフリ、と題しまして、読んだことがなくても読んだフリができる!というコンセプトで、その概要をご紹介しております。
遅筆・乱筆、大変恐れ入りますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。
↑ Part①はこちらからどうぞ。
未読の方は、大変恐縮ですが、①からお読みいただくことを強くお勧めいたします。
クラウゼヴィッツの思想は、哲学的なマトリョシカ構造によって、ひたすら連続的、かつ執拗に紡がれます。そのため、論旨を逐次追わないと、全容を理解しづらいのです。
(執拗すぎて極めて読みづらい、とも言えます。笑)
★Part①のふりかえり
前回Part①では、以下の内容に触れてまいりました。
●戦争は、政治的目的を達成するための、諸手段のうちの一つである。
●戦争は、敵をしてわれらの意思に屈服せしめるための、暴力行為のことである。
●戦争には、自陣営と敵との間に、3つの相互作用が認められる。
●戦争は、この相互作用によって、究極的には無制限な暴力の行使となることが宿命づけられている(絶対戦争)。
●ただし、現実の戦争は、さまざまな要因によって、この無制限性に一定の修正が施される(制限戦争)。
さて、今回Part②では、以下の諸概念について学んでいきます。
●戦争における蓋然性と偶然性(「戦場の霧」)
●戦争における三位一体
●敵の抵抗力をなす三要素「戦闘力・国土・敵の意思」
クラウゼヴィッツ哲学の優れた点は、理性・現実・感情・偶然といった諸要素を、極めてきれいに整理しつつ統合した点にあります。
それまでの軍事学…特に用兵思想においては、理性・幾何学・数学に寄りすぎたものや、逆にこうした事前に理解されうる普遍的法則を否定したものが入り乱れていたようです。
しかし彼の登場によって、いずれの諸要素も戦争に影響を与えうる、として統合的に理解されることが一般的になりました。
(こうした、いっけん対立するように見える諸概念を統合整理する手法は、大哲学者ヘーゲルの影響を色濃く引き継いでいます。この点も後日ご紹介できればと思います。)
★「読んだフリ」つづきです。
では、「読んだフリ」のつづきに参りましょう!
※以降、「彼」とは原則クラウゼヴィッツのことを指します。
※()内ページ数は、中公文庫版「戦争論」によります。
「(戦争が)特定の実在人物と特定の諸関係に基づいた蓋然性の計算の上になるものにほかならないとすれば、戦争の本来の動機である政治的目的がその打算の重要な要素となってくるのは当然のことである(48)」
「戦争の根本的動機としての政治的目的なるものは、軍事行動によって達成されるべき目標に対しても、それに必要な力の発揮に対しても、同様に一つの尺度となりえるものである。しかし政治的目的はそれ自体で尺度となるわけではない(同)」
…少し難しい言い回しですが、これも当たり前のことを指摘しているにすぎません。
戦争が政治的目的を達成するための営みである以上、軍事的目標もそれを達成するための戦力の発揮についても、政治的目的は一つの尺度になりえる。
しかし、政治的目的を達成するために、どんな敵味方を前提に、どんな方法で、どのような軍事力を発揮するかは、変動しうると彼は言います。
(原典では、ここから少々、軍事行動の停止・攻撃・防禦・決戦についての考察にページが割かれますが、戦争哲学から若干離れる内容ですので、省略します。)
「およそ人間の諸活動のうちで、戦争ほど不断にかつ一般的に偶然性と接触している活動はない。(59)」
「戦争はつとに客観的性質上賭けであるのみならず、また主観的性質上からも賭けである(同)」
後述する有名な概念「戦場の霧」にも通じる、重要な指摘です。
前述の通り、戦争は打算と蓋然性とに依拠した営みですが、だからといってすべてが理性・合理的に遂行されるわけではありません。
客観的にも主観的にも、戦争には常に「賭け」の要素が含まれる、と彼は言います。
客観的に、戦場では常に偶然の出来事が起こります。
例えば1561年の第四次川中島の戦いでは、武田軍は別動隊によって上杉軍を奇襲し、陣地から追い出し、本隊と挟撃する作戦を取りました。
しかし、折しもこの日、戦場には濃霧がかかったと伝わっています。
この作戦を察知した上杉軍は、霧にまぎれながら逆に武田軍の手薄となった本陣を奇襲し、大激戦となりました。
また主観的にも、戦争には「賭け」の要素がつきまといます。
どこから敵弾が飛んでくるかもわからない戦場で、将兵は勇気を奮い、不確実性な戦闘の中に自身を「賭け」るようにして立ち向かうからです。
(原典では、ここから少々、戦争と政治の関係について再度説明が差し挟まれますが、省略します。)
「戦争は(中略)一種奇妙な三位一体をなしているものである。その三位一体とは、盲目的自然衝動とみなしうる憎悪・敵愾心といった本来的激烈性、戦争を自由な精神活動たらしめる蓋然性・偶然性といった賭けの要素、戦争を完全な悟性の所産たらしめる政治的道具としての第二次的性質(67)」
第一部第一章のまとめとして、彼はこのような言葉を残しました。ざっくりまとめますと、以下のように理解できると思います。
戦争は、3要素の一見奇妙な集合である。
①敵に対して人間が抱く、憎悪や敵愾心の激烈さ。
②戦争において人間が自由な精神活動として活用する、理性と勇気。
③ものごとを理解する人間の能力が生み出した、政治的手段としての性質。
これ、わたしは戦争に関する、極めて秀逸なまとめだと思っています。
①は人間の原始的な衝動に、②は人間の精神的活動としての理性と勇気に、③は人間がものごとを理解する力を働かせることによって規定する戦争の性質に、それぞれ言及しているからです。
人間の感情→人間の精神→それらが戦争に与える性質、の順番で整理され、まるでマトリョシカのような入れ子構造になっていることがお分かりいただけるのではないかと思います。
ここまでが、第一部第一章の内容です。
ここまで行ってきた整理をもとに、クラウゼヴィッツは、更に論を推し進めていきます。
★第一部第二章「戦争における目的と手段」
「戦争の政治的目的は厳密に言って戦争の領域外のものである(69)」
第一部第二章は、またしても、戦争と政治の関係についての確認から始まります。
「戦争がもし敵を屈服させてわれわれの意思を受け入れさせる暴力行為であるとするなら、常に敵を打倒すること、つまり敵の抵抗力を奪うことだけが唯一の目的となり、またそれだけで十分なはずだからである(69)」
「作戦計画を論ずるについて、一敵国の抵抗力を奪うとは(中略)一般的な客体として他のすべてを要素を包合している三事象、戦闘力・国土・敵の意思について考察しなければならない(69)」
…はい、私がクラウゼヴィッツ哲学に惹きこまれた原因となる部分にたどり着きました(笑)
「戦争の唯一かつ十分な目的は、敵の抵抗力を奪うことである。
その抵抗力は、戦力・国土・敵の意思の三要素からなる。」
…この短い指摘の何がすごいか、少しだけ語らせて頂きます。
結論から申し上げると、この三要素は、彼が生きた19世紀にはまったく考えもしなかった戦闘領域についても、ほぼそのまま適用できる点で、尋常ではない哲学的価値を持っているのです。
例えば、20世紀になってから登場する戦闘領域である、空戦について説明しましょう。
彼が生きた19世紀の戦場とは、おもちゃの兵隊さんのようなカラフルな服装の兵士が横一列に並び、騎兵がサーベルをふりまわしながら駆け、銃砲は一発一発、銃口から火薬や弾を棒でゴンゴン押し込んで装填するような、そんな時代です。
当然、空戦などという概念自体が存在しなかった時代でもあります。
しかし先ほどの三要素、戦力・国土・敵の意思、を以下のように読み替えると、空戦にもそっくりそのまま適用できることが分かります。
●戦力=航空機、対空兵器、レーダー等
●国土(策源)=航空基地、兵器廠等(クラウゼヴィッツは、19世紀当時の陸戦を念頭に置いていたため「国土」と記載していますが、国土が抵抗力にもたらすものは、戦力を支えるための資源、人的資源、根拠地、地形、防御縦深等であるため、私は「策源」と読み替えることが可能と考えています。異論があればぜひお寄せください。)
●意思=そのまま、空戦を継続する意思
空戦においては、空の支配権(航空優勢)を得るため、当然航空機、ミサイル、それを支えるレーダーなどが投入されます。
→これらが撃滅されると、次は航空基地、兵器廠など、戦力の出どころとなる部分への攻撃が加えられます。
→こうして戦力も、策源も失った陣営は、空戦を継続することが不可能となり、抵抗の意思を喪失します。
…どうでしょうか?
無理なこじつけをせずとも、きれいに応用できるように見えませんか?
またもう一例だけあげさせていただきます。
これも後述しますが、クラウゼヴィッツによると、戦争「そのもの」は、戦争「に関するもの」の有用な部分を、すべて動員すると述べています。
この指摘もまた現代に妥当し、現代軍事学における戦闘領域は、伝統的な陸・海・空だけにとどまらず、宇宙・海中・サイバー空間・金融・経済・資源・選挙・科学技術・世論・言論・人間の認知…と、戦争にとって有用になりうる、あらゆる領域に及んでいるとする理解が優勢です。
(はあ????と思われるかたも多いと思いますが、これについて説明を始めるとほんとに止まらなくなってしまいます。
詳しくは「ハイブリッド戦争」、「超限戦」、「マルチドメイン作戦」などで検索してみてください。少なくとも、私が勝手に言い出した概念ではないことは、お分かりいただけると思います。)
これらの非・伝統的な戦闘領域についても、三要素を適用すると、その戦闘領域の特性を理解しやすくなります。
では、このうちの一つ「世論戦」を例にとってご説明します。
「世論戦」とは、特に敵である民主主義国家の世論に対して介入することで、自国の戦争遂行に有利になるように世論を操作しようとする試みを指します。
●戦力=自国の工作員、自国に宥和的な敵国の報道関係者・報道機関・市民等
●策源=自国・敵国の報道媒体、Web空間、自国の資金援助等
●意思=世論戦を継続する意思
このように整理してみると、自由民主主義国は、権威主義国に対して脆弱性があることがわかります。
日本や西側欧米諸国では、一般に思想や言論の自由が保障されています。議論のためのプラットフォームも、メディアやSNSをはじめとして多種多様です。また、敵対する国家に、自国の国家が世論戦を仕掛けて介入することについても、市民感情の反発は大きいでしょう。
であるがゆえに、世論戦において、戦力にも、策源にも、容易に攻撃を加えることができません。
従って、敵の「世論に介入したい」という意思そのものを打破することが、極めて困難なのです。
一方、権威主義国では、国家の意思に反する言論やプラットフォームには簡単に制限・弾圧を加えることができますし、敵国の脆弱な世論に対して介入することも容易です。
このように、クラウゼヴィッツが夢にもみなかったであろう非・伝統的な戦闘領域についても、その理解にきれいな補助線を引くことができます。
↑SNS上の言論空間をモデルに、より精緻な論考を行っています。
ご興味を持たれた方は、ぜひご一読ください。
さて…ちょっと脱線気味になってしまいました。
今回はこのくらいにして、Part②を終えたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。
なお私自身は、法学士卒の単なる民間人であり、専門家ではないことを申し添えさせていただきます。
原典に忠実な記述を心掛けるつもりですが、自信満々というわけではありませんので、ぜひともご意見、批評、ご感想などいただけますと幸いです。
【私見・追伸】哲学的脳筋♡クラウゼヴィッツ
私が彼の思想に惚れ込んでいる理由の一つ、それは彼が「哲学的・脳筋」だからです(笑)
今回ご紹介した通り、彼の思想の特徴は、大哲学者ヘーゲルの影響によって、対立する概念を統合(「止揚・アウフヘーベン」と呼ばれます)した点にあります。
彼は戦争を、最上位概念の哲学的手法を用いて、上位概念の政治と連結し、戦争が単なる理性の働きだけによるものでも、人間的な感情だけによるものでもないことを示します。
また戦場には常に不確実性という「霧」が立ち込めることも認めます。
そのうえで、クラウゼヴィッツは、理性、悟性、蓋然性といった、人間の思考で理解できるものを前提としつつ、「戦場の霧」の中に勇気をもって決断し、飛び込むことに戦争の本質を見出したのです。
これ、ビジネスでも全く同じことがいえると思います。
顧客から対価を得、会社から給与を得る以上、理性や悟性が導く論理性を備えることは、当然のことでしょう。
そのうえで、不確実な「ビジネスの霧」の中に、決然と飛び込み、踏ん張り、勇敢に戦うことが求められると私は理解しています。
要するに、クラウゼヴィッツは「頭で考えることも、前線で勇敢に戦うことも、両方必要でしょ」と言っているのです。
この「哲学的・脳筋」っぷりが、私は大好きなのです。
彼自身が現役の軍人だったのですから、当然と言えば当然ですね。
【さいごに宣伝】
↑戦争は哲学の失敗ではなく、むしろ哲学が産み落とした実の末娘であり、哲学の正統な末裔であるがゆえに、私たち人類を滅ぼすのでは?という一考です。
よくあるヒューマニズムから離れた、私がずっと抱えている根源的な問いにあたります。
今見るとかなり拙いですが、宜しければご覧ください。そのうち書き直したい…
↑ウクライナ情勢を自力で追いかけたい方のための基礎知識です。
内容少し古いですが…
↑FANTASTIC…です。
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