沈思黙読会:斎藤真理子さん「本だけを読む時間」を持つことが、今ではよくあることではない。読書というのは、実は「本と本の間」が大事なのかなと思う。
第10回 沈思黙読会で斎藤さんが語ったこと。その1
今日も暑い中、集まっていただきありがとうございました。お盆休みの方もいらっしゃるのかなと思いますが、これまでで一番人数が多いかもしれないですね。
このところ、日本では大きな地震があったり、大雨が降ったりと災害が続いていますが、南海トラフの報道があってしばらくして、韓国の知人から「地震がいよいよ本当に危ないなと思ったら、いつでも韓国に避難してらっしゃい」というメールをもらったんです。そこにには加えて一言、「いつ戦争が起きるかわからない国に住む自分がそんなことを言うのは恥ずかしいんだけれども」と書かれていて、とても韓国人らしいなと思いました。
ソウルって実はすごく平壌と近くて、タクシーで行ってもさほどお金がかからないくらいの距離なんですよね。それくらいソウルという街は国境、というか軍事境界線と接しているんですけども、普段は皆、そんなことは忘れて生活をしているわけです。でも、何かことが起こったり、北朝鮮がちょっと不穏な動きをしたりすると、それが世界中に報道される。彼らはそういうことを四六時中のように経験しています。
それと同じように、日本は地震がいつ起きてもおかしくない土地だから、南海トラフ関連の報道などが世界中に流れると「大丈夫かな?」と思うんだけれども、日本に住んでおられる人たちは地震と共存して生きているので、自分たちが北朝鮮の脅威や戦争の可能性を世界が注視しているときに持つ感覚と、地震の報道を見て日本に住んでいる人たちが持つ感覚って似ているのかもしれないと。だから、こういう心配の仕方はおかしいかもしれないんだけど、外国からだとそう見えるのです、と、そんなメールだったんです。
そして、それに対して、私も「こう言うのは私も恥ずかしいんですけども、そちらに何かあったら日本に来てくださいね」と返事を送ったわけです。いまや世界中がどこもかしこも不安定なわけで、安心な土地なんかないんだけど、あらためてこのやりとりをきっかけに、日韓では国が不安定な目の前の理由が、かたや地震でかたや戦争と大きく違う。
これはやっぱり象徴的なんじゃないのかなと思いました。大地が大きく揺れることを避けようがない国でずっと暮らしている私たちと、人為的に起こされた戦争の結果として、今でも隣り合った相手との間で何が起きるかわからないところに暮らしている彼ら。それぞれ感じている不安の総量はそんな変わらないのかもしれないですけども、やっぱり原因が非常に対象的なんだなとあらためて思った次第です。
戦争にしろ、災害にしろ、何かあったら自分の家を捨ててどこかに避難しなければいけなくなって、最悪、死ぬかもしれないわけですよね。仮に死なずに生き残ったとしても、冷房もない体育館みたいなところで自分は生きられるのだろうかと思って、冷房を消して扇風機だけで生活してみたり、台風の影響でしばらく大阪でも停電があったという報道を見て、扇風機も止めてみたりと、いろんなことを試してみました。
そして、そういう非常時に本を持って逃げるのかな? と思ったりもして。とりあえず、持って逃げないんじゃないかな。なるべく荷物は軽くしたいし。ただ、そういう時でも人間はいろんなことを考えるし、いろんなことを記憶する。今、その場に本がなかったり、文章がなかったり、物語がなかったとしても、そういう場所を経た人たちが、またいつか何か書いたりするんだろうなと。今年の夏は、そんなことを考えながら、とても暑い時期を過ごしていました。
さて毎回、このnoteで参加者の皆さんの持参本と読書をして感じたことを記録としてアップしてもらっているんですが、それを読むと、皆さんの多くが1冊決め打ちではなくてセットで本を持ってきていて、今日はなぜこの組み合わせになったかとか、持ってきたけれどこれは読まなかったとか、これこれの順番で読んだとか、その組み合わせの話がすごく面白いんですよね。この沈思黙読会のように「本だけを読む時間」を持つことが、今ではよくあることではないんだなということをあらためて実感しますし、繰り返し参加されるうちに、この時間の中で何と何と何を読もうか、という自分なりの流れみたいなものができてきている様子も見られたりして、読書というのは、実は「本と本の間」が大事なのかなということを思うようになりました。
その「間」は、本当に一人ひとりのものなので、「これを読んでたらあれを思い出して、もう一度読んでみたくなった」とか、「これを読んだらむちゃくちゃ腹が立ったので、こっちも読んでみたくなった」とか、それぞれにストーリーがあるんですよね。一冊の本と自分との関係だけでなく、周りにあるいろいろな本をつなぐ自分なりのストーリー。それが本を読む生活の中の、もしかしたら一番面白いところかもしれないと思ったんです。
ただ、普通は読書会というと一冊の本をめぐって話をすることが多いですし、書評というのも大体は一人が一冊の本について書くことが多いので、「本と本を結ぶストーリーを分かち合う」という経験ってほとんどないんですよね。仲のいい友達とおしゃべりしていて、そういう話に行き着くことはあるんですけど、こんな風に知らない者同士が大勢集まって、その話ばっかりするというのはすごく珍しい。でも、そういうところにこそ、その人の考え方とか人となりみたいなものがすごく出るように思います。ストレートに「自分について話してください」って言ってもあまり立ち現れないようなことが、「今日、自分はこの本とこの本をこういう流れで持ってきて、こう読んでこう感じました」といった話の中に、実はその人自身が詰め込まれているような気がするんですね。
そういう意味では、ここで皆さんがしてくださるのは、本当にかけがえがないお話だなと思います。もちろん本を介さなくても、こういう話を交わすことができればいいんですけど、こういう脳のプライベートなところにあることをダイレクトにやり取りするっていうのは、やっぱり難しいんですよね。どういう時にそれが成立するのかが分かりにくい。ところが「読むという体験」について話すときには、その辺りがなぜかさくさく出てくる。やっぱりそれはね、活字っていう限られた情報のみから、情景や心情といったいろいろなものを再現しようとする時に、人間はいろいろ潜在的な力を使っているからなんじゃないかなと思います。
ちょっと、これは「本」というものに入れ込みすぎているのかもしれないですけれども、映画とか演劇とかの話をするときって、対象そのものに関する話に熱中しちゃう感じがするんですよね。舞台やライブを見た後のおしゃべりは、いま見たものの感想や批評が中心になるものですけれども、ここで、本を読んだ後にするおしゃべりは、もう少しプライベートな領域の話になる。本を読むというのは個人的な体験でもありながら共有もできるんだな、ということを、10回目の沈思黙読会を終えて、あらためて深く思った次第です。
神保町EXPRESSIONで行われる次回の沈思黙読会(第11回、9月21日)は満員となりました。最終回となる第12回は、10月19日(土)、詳細とお申し込みはこちらです。学割(U30)有。オンライン配信はありません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?