8月16日 ちょっとした発見(文章の)
カレーの街から連れ帰った本はサンタ・エビータという、1940年代アルゼンチン大統領夫人だったエバ・ペロンのことを書いたもの。これがすごかった。
ミュージカルになるなど『エビータ』は大統領夫人として民衆に支持され愛された。亡くなった後その遺体は大統領の命令により腐食加工がされた。彼女は広く貧しい労働者階級の人々に支持されたため、その威光を利用しようとする者によって蝋人形まで作られた。その数体のエビータを巡って運命を狂わされた人々の話。
作者はアメリカにわたり現在はアメリカの大学で南米文化について教えているが、本作を書くことになった経緯が興味深い。整然とした文章が、時系列を乱しながら、史実と調査と作家の所感を交え著されているのが不思議。さながら南米の、ソフィスティケイトされていない政治体系に感じる曖昧で時に恣意的な薄暗がりを感じる。人間とはこういう生き物だと教えられた気がする。普遍的な名誉欲や、自己肯定するために周囲の賞賛を求めてしまうこと、賞賛や嫉妬に対する罪悪感を贖うための行動、不安からくる贖罪の渇望。そういったものが人を翻弄する。ファーストレディの高みに貧しい生まれだった自分を引き上げてくれた夫に感謝しながら、ひたすらさらなる高みを求め自己の存在を世に訴えた。副大統領の公認候補に推薦されながら亡くなるが、おそらく自覚のない強い衝動が彼女を突き動かしたのだろう。そういう女性は少なからずいる。
この本は、『小説ペロン』も執筆した作者が大量の資料や調査やインタビューを通じ自らの中に作り上げた情報の大海が自ら思いもしなかった姿になったり変容したりして、作家にこの本を書かせるよう強いた。その作家の心理状態を、情報の羅列を追いかけながら、読者も経験できる。
なぜドキュメンタリーではなく、小説なのか。それはあとがきから読んでもらうとわかる。そしてここに翻訳者の秀逸さが現れている。この本は、ドキュメンタリーとしての真実を押さえながら、訳語を選ぶときの余地に全くの狂いもなく、それはあとがきにあるような『小説』とした作家の意思と内容の信憑性の両方を担保している。その緻密さが、反対に南の国の、ややもすれば発言力とリーダーシップが権力を持つ国の、曖昧模糊とした空気に依存した政治を如実に表している。
その緻密さはもう数学的と言って過言ではない。
翻訳本はこうした正確さがとても大切になってくる。いろんな訳を読んで自分なりの原文のイメージを掴むこともできるが、最初に手に取ったものが一番印象が強い。そのために訳者はとても注意して文章を作る。
それに対して、日本語で書かれた小説はそうではない。第三者が言葉を選び、客観的にその一文を最大理解した上で最も文章に寄り添った言葉にするが、日本語で書かれたものはその空気まで含んだものであろう。その時にしか使わない句読点の使い方とか、略し方とか。文語と口語の区別はもうないと云うが、これがそうじゃないだろうか。今の翻訳本は文語体、普通の小説は口語体。引いて云えば、外国語の短文など意を伝えために訳したものは文語、それを今風に韻を踏んだり、意匠を含めて置き換えすれば、口語。そんなふうに、ヴァリエーションもありうる。
今の小説がどうも頭に入ってこない私には、この文語の方の翻訳物が読み物として読み応えがある。言葉はこれほど的確はものかと、付箋が欠かせない。本が物理的な本でなくてならない訳もここにはある気がする。
そんなことを文章について発見した。
古本屋街には宝が埋まっている。
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