
【厩菓子】黒蜜バナナブレッド&10月3日 台所という定点観察
バターだけはこだわって、グラスフェッドの無塩バターを使いました。あそうそう、サワードウのために取り寄せていた全粒粉も三分の一量加えていたので結構健康志向寄りになりましたね。
バナナブレッドです。ホテルに勤めていた時からそう呼んでいました。粉多めの膨らんだ断面の気泡がところどころ長く引きずっているところ、パンに似ているからでしょうか。甘さ控えめ、フーンとバナナの香りが鼻に抜けます。スライスしたこれをトースターで焼きバターを乗せて食べていた人がいましたっけ。それでブレッドと呼ばれているの?
ともあれ、厩舎に持ってゆくお菓子が復活の兆し。といってもお休みしたことはほとんどないんですけどね。でも心が入らないというか、形だけの習慣になっていました。仕方ありません、昨年は家人が脳幹梗塞で倒れ無事生還・復帰しましたが、私の方は心が常に崖っぷちでしたから。この厩菓子作りをやり続けてきてよかったと思います。心は体から抜け出たように心配事の森を彷徨っていましたが、食べてもらうスタッフの顔を思い浮かべ心の重しなりました。今日は黒蜜を砂糖がわりに入れました。それでこんな黒いバナナブレッドになりました。
台所は私にとってリハビリステーションですね。コロナがパンデミックに突入した2019年に飼いだしたスタンプーの華子が突然亡くなった時も、台所に入るとしゃんとしました。華子は二歳になると大きな躰でシンクに前肢をかけ料理中のものをいたずらするようになり、時には庭で採れた新じゃがのフライを半分以上食べてしまったことも。直前の母の死と、華子と、料理と、それこそしっちゃかめっちゃかの頭の中を、イタズラで引っ掻き回してくれて、それでもちゃんとご飯は作らなくちゃいけなくて・・・。そういった思い出とか、経験とか、自分はどうなったらやばいとかあ、いろんなことを実験しそしてデータを集めた場所でもあります。
そして家のことも、考える場所です。日が短くなってきたからそろそろ二階の日除けを外そうかとか、お義父さんは元気かなとか、野菜室の山芋はそろそろ使い切ろうとか、家人は昨晩咳をしていたけど風邪かしら、とか。
これを、リビングでじっと座って考えたりするのは違うんです。「あー大変」って悩みになってしまうんですけど、手を動かしながら台所に立つと、不思議と私の脳は解決の方向へ動いてゆきます。
少し前は、何もしないのが贅沢と思っていたのにね、不思議です。母の世代にとっては『上げ膳据え膳』は贅沢でしたけど、私なら教えて教えてどうやってつくるの?、どこにあるの?と動き回りたいです。何も考えず、心配せず、風のようにどこへでも行きたいですわ。
その時々、ライフのどの時代でどんなふうに感じていたか。そんな記憶がギュッと詰まっている場所。それが我が家の台所です。息子と紫煙を燻らせながら話し込んだり、残業帰りに子供のバースデーハンバーグを作ったことや、マルプー14歳のために玄米入りのドッグフードを作ったこと、何をじゃなく、どうやった、どう感じたが詰まった場所です。
近頃『自分のために生きる』というフレーズをよく聞きますが、誰かのために何かしようと思うことは私自身の好みであります。子供はそうして欲しいか確かめるべくもありませんし、熱を出せば看病するのは元気になって欲しいからで、それは私のためなのかもしれません。誰もが今のこの瞬間の『パズル』のピースです。私は私のいるこの環境を、健全で美しくしたいだけなのです。簡単そうですが、実はそうではありません。みんな何かしらの思惑があるからです。それでも愚直に、それこそ家事のように瑣末な作業をやり続けて地盤を整理する。尊いと思うのですよね。
つまり、台所と厩菓子は私自身の観察点なのです。自分がどういう状態か、定点観察する場です。華子がいた時ふと100%の集中度で菓子作りにのめり込んでいる自分がいました。レシピのままではなくどうすべきか、見えてきた瞬間です。イタズラ放題の華子がいたのにですよ。しばらくは、菓子を作る時になると、その状態になることができましたが華子が亡くなって一年はダメでした。でもあの時、華子がいたからせめて菓子作りの間だけは集中しようとし、実際できた瞬間の爽快感はたまりません。あれを思い出します。
やっと不安も、一通り経験しましたから、あとはまた華子が教えてくれた尊い集中力と脳の爽快感、あれをもう一度。
あの頃、バターサンドを研究していましたっけ。随分涼しくなってきたし、そろそろバターサンドを復活させましょうか。それとサワードウ。どうしてもサワードウの捨てだねで、健康的でしかも巻かないベーグルを作りたいので。