見行企行 新しい枠での方法とは
CEV21 掲載, 1990.10.10
90年代に対応した新しい枠でのデザイン観、デザイン方法論を持つ時代
1850年の産業革命以来、マスプロダクションは自動車、電化製品、洋服等あらゆるものを大衆化してきた。日本では、故松下幸之助氏の理念であった「電化製品を水道の水のごとく多量でかつ安価に世の中に提供することにより社会に貢献する」という水道哲学のもとに、量により社会に豊かさをもたらそうとした。そしてカラーテレビ、クーラー、カーを持つことが豊かさの記号であるとまで言われた「3C時代」は、産業革命がもたらした最大の効果でもあった。
このような産業界の構造の内に位置したデザインは、モノとの密接な関係を保ち続けて今日に至っている。そして3C時代に象徴される豊かな時代の量がもたらした、公害、環境破壊、怠慢性等の多くの問題は、以前にも書いてきたが(CEV21 6月、7月号参照)近年になり、改めて人間としての豊かさに対する問いかけの答えをみいださなければならなくなったのである。
デザインシーンは産業革命以後140年の系譜を経て、今、自分達がやってきた仕事の評価をし、そして、今後を予測してみると現在1990年は丁度変わり目に位置しているように思える。
ところがデザインは今だ産業革命志向というか、日本の高度経済成長に培われたデザイン方法論であり、新しい枠組の中でむりやり対応しているように見えるのである。新しい枠組でのデザイン観、デザイン方法論を企業も個人も持つことが近未来に対する回答であると考える。
これからの90年代は、グローバルな視野での真の国際性を問われる時代であり、数量、地域、期間、流通経路などの計画的コントロール等により、商品本体のみならずそれにまつわる環境自体に意味性とイベント性を持たせ、新たな価値創造へとつなげていく時代である。
先に述べた計画的コントロールという概念ともう一つの概念として、機械を中心とした時代から電子をテクノロジーとした時代へと移行している。(cev21平成2年1月号参照)こうした変化の要因がこれだけ集中的に起きてくる90年代というのはやはり変革の極点である。
ただそれは見えない部分で純化しているわけであるから、それを見る目を持たないとおそらく時代の変化は確実な意味で理解できないと思う。
マスプロダクションが終わった今、量産が幸福をもたらす時代は確実に終わったのである。今、デザインの起点をどこにポジショニングするか、どのように表現するかが私は一番興味あるところである。
デザイナーが経営資源として自由裁量free decisionを持った時、何を起点としデザインされたかが問われる時代だと思う。
ヒット商品について
過去、アサヒスーパードライ、電子手帳、ファイブミニ、チームデミ、二光通信、トレシー、etc、これらのヒット商品はマスプロダクション時代には消費者のニーズやトレンドを分析し、市場調査をして商品化してきた。そして多量に販売できればよかった。
しかし、しばしばその企画には企業の経営状態を悪化させたり、企業の永続性をなくすことを引き起こしてきた。即ちなりゆき経営であった。企業は流通や消費者に隷属化していたため商品の意味性を失ってきたのである。
企業はイデオロギーやアイデンティティーを持つことによって、商品の自由裁量度を増大する中で、企業の存在を明確にすることができると考えられる。
企業の存在と生活者に対するメッセージを明確にし商品を創造することが、生活者とのインターフェイスとなる。
企業がすべきことは何のために企業があるのか、社会に対してどのように貢献するのか、
それを基本に中長期計画の事業を計画、立案し、その商品を今後どのように発展させていくのか、
企業の永続性のためにどのような新しい技術が必要なのか、
企業の実践計画を明確化し、一商品まで企業理念を凝縮インジケートし、できるだけ具体化することによりコントロールプロダクトができるのである。
即ちマスプロダクション時代のヒット商品は計画より、より多く販売することであったが、計画通りに生産し、計画通りに販売するコントロールプロダクトが今後のヒット商品を生みだすのである。これらのことがシステム化された時に真にデザインは経営資源となりうるであろう。
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