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ココ、わたしもう一度

林檎を剥いているうちに、ガス火にかけた薬缶がシュンシュンと湯気をたてはじめた。紅茶のティーパックに熱いお湯を注ぎこむと、アールグレイの香りがキッチンいっぱいにぶわっと立ち上がる。白い湯気が、冬の朝を先取りしているような気分で、沈んだ気持ちが穏やかになる。11月。もうじきこの町にも雪が降るだろう。

この町へ越してきてから、ずっと規則正しい生活をしている。

朝起きて、冷たい水で顔を洗い、ご飯を食べて仕事へ行く。夜は7時には帰宅する。夜ご飯を食べて、湯船にあたたかいお湯を張ってお風呂につかり、日付が変わらないうちに眠りにつく。

食べるものも食べず、眠ることもままにせず、ひたすら戦い挑戦し続けた20代を、取り戻せるわけでは無いことは知っているのだけれど。
何かを得よう、何者かになろうと、思って追えば追うほど、理想はどんどん遠くなった。それが悲しいわけではない。意味がなかったとも思わない。けれども少し、立ち止まって見るのも悪くはないかもしれない。それもまたひとつの挑戦だったのかも、知れないけど。

言い訳はしない。ひとの悪口も言わない。心無い言葉に傷ついても、気にしないことにしよう。それでも、思いのままにならないことはある。それもまた人生。

***

ふと思い立って、シャネルの香水を買った。

とは言っても、高価な香水を平気で買えるわけではないし、失敗もしたくない。なんならいくつか香りを知りたいと思って、小売り販売で何種類かのアトマイザーを届けてもらった。
かの有名な№5、ガブリエル、1932、ジャージー・・・名前だけでも気持ちが浮き立つようだ。
シャネルの服もアクセサリーも詳しくないけれど、ココ・シャネルの生き方には何度も勇気を貰った。だから、香りを知れば彼女の気配を、少しでも身近に感じられるような気がした。もう一度、人生に立ち向かってゆくために。

心から贅沢な40代を迎えるために。

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