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【エッセイ】「自己満足の為に文章を書く事は悪い事なのか?」の話
これは大体2週間前の話、似た志を持った人と話していた時の事だった。
私はかねてから「『アイデアの発信とその評価』を目的として小説を描く事」を目指してきた。
すなわち「『幼き利己を脱したハイ・シナジー社会』を前提として、誰もが自由に使える資源・施設にアクセスでき、自らの自由を制限される事無く行使できるポスト資本主義イデオロギー」の提案である。
加えて「絵が書けたなら漫画家でもよかった」「それを生涯をかけた使命にしたい」と氏に伝えたのだった。
しかし、端的に言うと、氏は「『書く事でしか生きられない人』でなければ、その文章は自分だけしか救えない自己満足にすぎない」と、更に氏の恩師譲りであると前置きをした上で「小説を読んでもらうという事は圧倒的に時間を奪う行為で、それに対する責任がある。(その責任が果たせないなら相応しくない)」と述べた。
加えて私の「絵が書けたなら漫画家でもよかった」という文言に対して「どれ程の努力を経て漫画家がそれを描き上げているのかを軽視している」と述べ、捨て台詞に「私の主義主張の発信をライフワークにしたい」という文言に対して「その為に生きるというのはなんだか軽いと思えた」と言い放ったのだった。
そして「私は“社会の歯車である事”に安堵しているからこそ、世界の縁にいるのだ」と。
確かに、私のスタンスは自己満足的なモノで、漫画家の血の滲む様な努力を考慮しない軽薄な口調だったのは間違いないのだが、やはり「どうして自分しか救えないかもしれない自己満足が悪いのか」が強く疑問に思われたのだった。
そこで「自己満足とは何か?」「自己満足のどんな所が悪いのか?」「『自己満足の為に文章を書く事』への私の結論」に分けて私の考えを述べていこうと思う。
■自己満足とは何か?
まずは自己満足について、世界の集合知であるWikipediaにはどう定義されているか見てみる。
行動を行った場合に、その行った行動に対して、自分自身が満足をする様なものの事を言う。
それは客観的評価と関係なくされている。
ボランティアなどと言った活動において「社会貢献という理念」を前提としているが、実態は自己満足に終わる場合が多い。
企業経営においても自己満足は非難される事柄であり、社内においても自己満足が蔓延する事があればそれに起因して業績が悪化する事もあるという 。
自己満足に悪いイメージがあるのは「そこで歩が止まってしまうから」だと私は考えるが、それに限らず「自分が満足できないからここでやめられない」というイメージもあるのではないかと思う。
そしてそれは「自己満足を構成するパラメータ」を考えてみればわかりやすいかと思う。
つまり「下限に近い程『自己陶酔』、上限に近い程『自己研鑽』である事を示す、常に揺れ動く値」が自己満足度であると私は考えて居るのだ。
(そして「自己陶酔の果てにあるのが“自慰行為”である」と)
自己陶酔と自己研鑽の定義については次のようになっている。
自己陶酔 とは
●自分に酔いしれる事。うぬぼれて、良い気持ちになる事。ナルシシズム。(四字熟語を知る辞典 より)
●自分に酔いしれる背景には3つの理由がある(Domani 「自己陶酔」ってどんな意味?特徴や心理、対処法などを詳しく解説 より)
➀注目されたい:優れている自分に注目して欲しい
➁自分を大きく見せたい:尊敬されたい・凄い人だと思われたいと思う
➂自分に自信がある:周囲が思っている以上に自分を過大評価している
自己研鑽 とは(実用日本語表現辞典 より)
自分自身のスキルや能力などを鍛えて磨きをかける事。
自身の知識や技術を深める為に、自主的に学び続ける行為を指す。
この行為は、個人の能力向上や専門性の強化に寄与する。
書籍の読解、オンライン講座の受講、研究活動、実践経験の積み重ねなど、多様な方法が存在する
例えば何らかの作品を作る時の「『目の前にある自らが作り上げたモノ』と『頭の中にある理想像』との一致度」が自己満足度と言う事である。
つまりその理想像の程度が低い程、あるいは作り上げたモノの完成度が高い程、一致度(自己満足度)は高くなると考える。
特に「達人が手掛けるマスターピース」は、「作り主のすこぶる高い理想像」故に作り上げたモノは完成度が低いと自ら判断し、その質が追求され続けた結果である事がわかるだろう。
他方素人の作品が「作って満足」に終わるのが多いのは、「持ち合わせている(最適とは言い難い)道具・スキルで作られるモノ」と「曖昧な理想像」で全体的に水準は低く設定され、一致度も伴って低くなっている様子に分かりやすいと思う。
それから、自己満足をパラメータだと解釈したのは「満足度を構成する『作り上げたモノの完成度』と『頭の中にある理想像』の2要素自体も揺れ動くと考えているから」だ。
だが完成度と理想像(ひいては双方の一致度たる自己満足度)の揺れ幅は「『目的を達成する為にいくらでも存在する選択肢=手段』を選んでは失敗するを繰り返した結果」として生じるもので、長期で見れば微小なものになると考えられる。
(当然「目的レベルの変更」があれば話は変わる)
具体的には「『その時々の環境・状態』に由来して、常に同じになるとは考えづらい」のである。
例えば「締め切り期日が間近な場合」や「資源・資金に余裕がない場合」、「自身や関係者の体調がすぐれない場合」に分かりやすいだろう。
また完成度は「道具・スキルの有無・質」や「湿度や温度で変質する様なシビアな材料を用いる場合」、「時の心身の状態に影響を受ける事」を考慮すれば、常に同じパフォーマンスを発揮できない事は誰でもわかるだろう。
条件が揃った時「作ったモノの完成度」が上下し、後は「頭の中にある理想像」次第になる訳である。
だがその理想像も変動する場合が考えられる。
例えば「各種条件との検討の結果、妥協せざるを得なくなった場合」や「ライバルの完成度が予想より高かったから、負けない様に質を上げる(あるいは早く仕上げる)場合」、「理想像通りにできたけど、今一つに思えたから追求してみる場合」等、これもいくらでも考えられるのだ。
また、少し脱線するが、「利己的な比較・競争」と「利他的な切磋琢磨」には、それぞれ「勝って得られる自己陶酔」と「負けても得られる自己研鑽」が対応しているのかもしれない。
これについてはまた後日考えてみようと思う。
自己満足についてまとめると次の様になる。
●「『作り上げたモノ完成度』と『頭の中にある理想像』との一致度」で示される
●「自己陶酔」と「自己研鑽」を両極に持ったパラメータ
●「完成度」と「理想像」は環境や状況によって常に揺れ動き、伴って一致度(自己満足度)にもある程度波はある
■自己満足のどんな所が悪いのか?
「『作ったモノの完成度と理想像との一致度の程度』によって、その自己満足が自己陶酔なのか自己研鑽なのかがわかる」と述べた。
ここで、「自己満足のどこが悪いのか」について考える前に、まずは前提として「個人的な“自由”の解釈」について述べようと思う。
●自由とは何か?
私はリベラリズムを是とする人間故、個人の自由の行使についてはある程度理解があるつもりだ。
自由の解釈は古くのギリシアで自然権として用いられ、現在まで“基本的人権の土台”として機能している。
そして「自由を核に据えた政治思想」たるリベラリズムは、王侯貴族による専制政治の打倒を果たした革命の時代に始まる。
時を経て、今や自由の解釈は多様性を認めるに至ったが、その原則として「自由の解放と制限」を旗印に掲げたのだ。
自由の解放と制限とはすなわち「万人に所有と消費の自由は与えられるが、(同意なしに)他者との境界を超えるべきではない」という事を意味し、現代の資本主義を支える解釈と言える。
これは何を意味するのか。
端的に言うとそれは「自らの自由を行使して、他者の自由を侵害してはならない」という事だ。
これまでの文脈からもわかる通り、私は自己満足を悪いモノとは考えていない。
だが「それは自らの手の届く範囲内だけの話」なのだ。
私は他者の自由に足を突っ込んでまで自らの自由を謳歌したとは考えていないのだ。
そしてこの解釈からもう一つ言えるのは「自由とは『自ら選び決める事』であり、何を選んで決めようと、他者は関係ない」という事である。
私は「他者への強制」が嫌いだ。
「選択者個人の意思が介在しない一方的な決定」は自由な選択ではないと考えているからだ。
(当然契約や同意があればその限りではない)
だが「強制が働いていない、完全に個人の自由に基づいた選択が委ねられた場面」において、その個人が何を選ぶかは「その人から見た他者である私やそれ以外の誰かには関係ない」のだ。
つまり「何かをするとして、そうしたくなったらそうすればいいし、そうしたくなくなったらそれを辞めればいい」のだ。
テレビを見るのも、出かけるのも、お金を使って食事をしたり何かを買ったりするのも、そして文章を書くのも読むのも、やりたい時にすればいいし、やめたくなったらやめればいいのだ。
言い換えれば「その選択が将来どんな結末をもたらすかも個人の自由故、その継続や中断も個人が判断するべきだ」という事である。
その上、「自ら選び決める事」には、それが自らの手の届く範囲だけだったとしても「相応の責任」が生じる。
だがこれは本旨から逸れる為、記事を分けたいと思う。
ここで個人的な自由解釈について簡単にまとめておこう。
●自らの自由の行使によって、他者の自由を侵害してはならない
●自由とは「自ら選ぶ事」であり、何を選ぶかは他者には関係ない
●何かをするとして、そうしたくなったらそうすればいいし、そうしたくなくなったらそれを辞めればいい
●自己陶酔のどこが悪い?
ではまずは「自己満足の内、自己陶酔が悪い場合」について考えよう。
他者にしてみれば“実態に伴わない虚勢”が鬱陶しいが、自由の原則において他者の自由を侵害していなければ、残念ながらそれは(気にくわない)個性という他なく、許容せざるを得ないだろう。
しかしそれで実害が、例えば「他者の自由を侵害して自らの自由を、こと快楽を貪る場合」があったなら、いよいよ許容する必要はなくなるだろう。
そしてそれは文章を書く場合において「公共の文章で回りくどくてわかりづらい様な文章を書くんじゃない」という事かもしれない。
だが、先にも述べた様に、読む側は「読みたかったら読めばいいし、読みたくなくなったら読むのを辞めればいい」だけの話ではないか?
そして「読むのが個々人の自由なら、他者の自由を侵害している訳ではない」のではないだろうか?
多くの読者は「自分が読みたいから読んでいる」のであって、それは強いられてそうしている訳ではない「自主的・能動的な行為」のはずだ。
「食事したり出かけたり仕事したり『他にもできる事がある中』で、時間を割いてでもしたいと思える何か」があったからその人はそれをしていて、その文章を読んでいるはずなのだ。
そしてここから言えるのは「自己陶酔な文章であっても読者にとって面白ければ読まれるし、つまらなければ読まれないだけ」であり、「詰まらなかったら読まれなくなる事実」を示すのではないか。
よって「それを描く事で(恥をかいたり)他者からの評価はどうなるか知らないが、読む・読まないは読む人の自由なんだから、別に問題ない」と考える。
●自己研鑽のどこが悪い?
続いて「自己満足の内、自己研鑽が悪い場合」について考えよう。
とは言え「『自分自身のスキルや能力などを鍛えて磨きをかける事』が悪くなる場面」とはどの様な場面なのだろうか?
上で述べた様に「それによって他者の自由を侵害する場合」は自己研鑽であっても認めるべきではないだろう。
例えば「夜中の住宅街でドラムの練習をする」などもっての他であり、これは「他者の寝る自由」を損なっていると言えるだろう。
その様な極端な例を除いたとして、文章を書く際に考えられるのは「単なる利益を求める様な軽薄な目的の為に『特筆点も新規性が無い(あるいは薄い)駄作』を増やして業界の評判を落とす場合」だろうか。
例えば「『一定の評価を受けて興行収入が優れていた前作』と同じ世界観・キャラクターを用いて書かれたフランチャイズ作品」はそれにあたるかもしれない。
実際出来がいいからグッズの類は売れるし、面白いと評価する人はいる訳だから売れるには売れる為、企業からすれば“便利な商材”に映る事だろう。
だがその結果肝心の中身が希薄化し、「原初に持っていた様な奥ゆかしさ」が残っているかは判断が難しくなるかもしれない。
(ただし「フランチャイズ作品は、その作品の質だけではなく、『前作を踏まえたクオリティ』も評価に加わる点」には留意したい)
だがフランチャイズ作品を含めて、「明らかな地位低下を狙って書かれた駄作」なら露知らず、「自分が面白いと思って描いた作品」を世に発信する事がそうなると思って描かれるだろうか?
そして「文芸史上に燦然と輝く名だたる文豪たちの作品」が必ずしもその条件を前提に描かれたモノだっただろうか?
では仮に「今後『特筆性と新規性を十二分に考慮した作品だけ』が出版される様になる」として、その選択を採った会社・業界・著者はどうなるだろうか。
順当に考えれば作品数はめっきりと減り、それだけ業界の収入も減り、衰退する事は免れないだろう。
その業界の将来や潰えた名作の出現可能性を、そして「それが必ずしも面白いのか」を考えれば、それが愚かな考えである事は明らかではないか。
そして何より「つまらない文章を書くな」とは「自らが物書きとして若かりし頃を考えさえせず、しかし他者に対しては『ミスして損失を増やすなら何もするな』と言っている様」に見える。
「個人レベルでその考えを抱き研鑽を積む」のはいいかもしれないが、他者にそれを強いるのはおかしいという話なのだ。
それに、それが面白いかどうかを判断するのは「自分を含めた全読者」なのだ。
よってここでも言えるのは「それが特筆性も新規性もなかったとしても、自分が満足できたものが書けたなら、他の人にも読んで評価してもらう以外にそれが面白いかどうかはわからないのだから、別に悪くない」と考える。
●「自分だけ満たされてずるい」?
あるいは別の視点から自己満足を悪い事と捉えている可能性もある。
つまり「自分はこんなに不満・不自由でいっぱいなのに、一人だけ・自分だけ満足しているのが許せないからという主張」だ。
これは「ルサンチマン(弱者の強者に対する憎悪を満たそうとする復讐心が内向的に鬱積した心理)的態度」であり、「奴隷から見た市民、市民から見た貴族の構図」にも見られたものだろう。
もっと具体的に言うなら「『自分が葛藤を経て諦めたそれ』を目指す他者がのうのうと知った様に語る時の心象」がそれなのだろう。
その実それぞれにしかできない仕事をしてその地位にいるにも拘わらず、それを妬む側には裏側は見えてなくて、表から見える怠惰さや豪勢さに理不尽を感じている、と言う訳である。
だが「自らの履行義務を果たさずに他者のただ一側面だけ眺めてそれをずるいと言う」など見当違いではないだろうか。
何より「自分が不自由しているからと言って他者にもその不自由を強いた」としたら、それこそ「他者の自由の侵害」であろう。
それも「その不満・不自由が自分で作り出したモノ」だったとしたら、実に滑稽ではないか。
私にすれば「『自分の事は見ない様にして自分が持っていないモノを持っている他者を妬む様な者』は仮に欲しいモノを得ても満たされる事はないだろうに」と思うばかりである。
■「自己満足の為に文章を書く事」への私の結論
と言う訳で、私は別に自己満足を悪い事だとは思ってないし、その為に文章を書く事も悪いとは思っていない。
その内訳を考えると「誰が何と言おうと、関係ないから」「利他行の為にはまず自分が満たされる必要があるから」の2つに分けられるかもしれない。
●「それがどうした」
「誰が何と言おうと、関係ない」とは、上の自由解釈で述べた様に「他者の自由を侵害さえしなければ何をしたって良い」「万人は自分の選択を自分で決めれば良い」のだから、私が自己満足する事も、他者が自己満足する事も、私がどんな文章を書こうと、誰かがどんな文章を書こうと、関係ないのだ。
あえて言うなら「それがどうした」なのだ。
もちろん自分や他者が何かを選択した時「『どうしてそんな選択をしたのか?』『私ならその選択肢よりこっちの選択肢を選ぶのに』と思う事」はあるだろうが、それを思うのも自由だし、それを伝えるかもその人の自由だ。
しかし人の世では許されるからと言って自由を振り回していては人が離れていくだけだ。
何故か、それは「人は知性と品性で計られるから」だ。
「雄弁は銀、沈黙は金」と、また最近では「何を言えるかが知性、何を言わないかが品性」と言われる様に人間性の豊かな様子がわかる金言が知られている。
知性が必要なのは「知っている事が多ければそれだけお金や食べ物にありつく事ができる様になる」として、何故品性が必要になるのだろうか。
これは「社会性動物の特徴」という事ができる。
例えば「目の前に『人としての気前の良さ・器量』のある人とない人が居た」とする。
品性の無い人の様子は想像に任せるとして、品性のある人は他者を思いやり、譲り、何時も機嫌がいい。
そして仕事をする時、どちらと一緒に働きたいと思うだろうか?
「品性的でありたいかどうか」もまた個人に選択が委ねられているが、言える事は「そうする事で対人関係はスムーズになり、幸せになりやすくなる」という事だ。
これは別の記事「【エッセイ】「人の賢さを構成する『品性』」とは何か?」を参照いただければと思う。
「『誰かに向かってヤジや批判を飛ばす人』にも、同じだけヤジや批判を受けるだけの要素がある」のと同じ様に、自己満足を否定できる人は「自己満足で生きていない人」だけなのだ。
そしてそれは「自我(主観認知)を持たない人間」だけなのであり、つまり不可能なのである。
だからこそ私は自分ができていない事で他者を批判したりしない様に心掛けているし、自分ができている事なら他者も同じ様にできるかもしれないと考えているのだ。
●余裕を施さなければ偽善になる
「利他行の為にはまず自分が満たされる必要があるから」とは、「自分が満たされないうちに他者に施していては、偽善になってしまうから」と言い換えられる。
偽善が良くないのは「本来の性格や気持ちを隠して外観を良く見せた結果、遠からず自他共に不足に陥る不幸」が待っているからだ。
だが「そもそも何故他者に施そうとするのか?」と思われるだろうが、その様子はイソップ童話の太陽と風の様に「利他行(他者の利益)が回りまわって利己行(自分の利益)になるから」である。
その根拠は心理学者マズローが提唱した「5段階欲求説」にある。
5段階欲求説とは「人間の行動の動機には欲求が関わっている事」を説明する論説であり、下位の欲求が満たされる事で上位の欲求が求められる様になるとされている。
その内最も高次な欲求は“自己実現欲求”と言われ、「本質的価値を追求したいという欲求」である。
本質的価値とは「人間にとって究極的かつ本質的な価値であり、もうそれ以上に分解できないモノとして我々が知覚するモノ」の事であり、異なる視点から眺める事で「真・善・美」等14種類の形容手段を持つ。
氏によると、自己実現欲求とは「人が潜在的に持っている物を開花させて、自分がなりうる全てのものに成り切る事、あるいはより一層自分であろうとする欲求」なのであり、史実上の偉人の多くがこの欲求に基づいて偉業を達成していた事を明らかにしている。
そして利他行は「品性の主要構成要素」なのだ。
「『品性的である事』で対人関係がスムーズになり、幸せになりやすくなる」としたら、そうあった方が生きやすいというものではないだろうか。
「他者を満たそうとする為にまず自分を満たそうとする事」を自己満足というなら、私は自己満足に生きているという事になる。
そして「人や物に自分を満たしてもらおうとする人」を見ると、可哀そうにと思うのだ。
■氏の主張に対する回答
最後に、私にこれを書かせるに至らせた「“似た志を持った人”からの主張」について、私の考えを述べて終わろうと思う。
論点は大きく分けて「書かなければ生きられないのか?書く事で救われるのか?」「何の為に書くのか?」「読者への責任を負えるのか?」の3つになると捉えた。
●書かなければ生きられないのか?書く事で救われるのか?
まず結論から述べると、「私は『描く事で救われる人間』であり、それによって自分を救いたいと思っている」。
氏は「(主義主張の発信という)自己満足の為に生きる事は軽い様に思える」と述べた訳だが、そもそも私は「訴えたい何かがある訳でもないのに何かを描写しようとするのは難しい」と、「一本通った軸を描いてこそ面白いモノが描ける」と思っている。
当然全ての作品がそうある必要はないと思うが、私が面白いと思える作品に登場するキャラクター達のほとんどは「決して変わらない(故に時に折れてしまう)主義主張」を持っているのだ。
私が眺める彼らには時に親しみや尊敬さえ抱くが、それは「(必ずしも良かったとは言えない)自分の過去を思い出させる程の生々しさ」を持っているからであり、その感覚は「リアルの友人や家族に抱くのと同じモノ」なのだ。
そういう訳で再現度の高い人物像を描くには「『これだけは誰に何を言われても変えられない』という様なより深い個性」を抜きでは難しいのだと思っている。
何せ現実に生きている我々は好き嫌いを持っているのであり、そういう造詣の有無が情報発信以前に小説としての面白さ、とりわけ共感やリアリティ・親しみやすさを形作っているのではないだろうか。
そして「リアルの人間関係に臆し引きこもっていたかつての私」は、「リアルの人間関係にも感じられる感覚を抱いたキャラクター達」から「辛かったかもしれないけど、『それでも』良い人もいる」と教えられ救われてきたのだ。
恩返しではないが「今度は私がそちら側に立ってみても面白いだろう」という気持ちもある。
それに私の心身は自慢できる程強くはないから、いつまた折れるともわからない自分を、まずは満たしたい。
その意味で言うなら「私は描く事で救われるし、生きていられる」とも言えるのかもしれない。
●何の為に書くのか?
そもそもの目的として、私は「こんな方法もあるよと『より善くより面白いと思える世界の姿』を提案して、(かつての私救われた様に)一人でも境遇を良くする事ができればいい」と考えている。
美談も混じっているが、私は「自分が面白いと思ったアイデアを他者にも面白いと思ってもらえる」と信じているのだ。
だからこそ「『より良い何かの提案』や『自分が面白いと思ったモノの発信』以外の目的で何かを書く」と言うのがピンとこないのだ。
当然飯のタネとしてやっている人もいるだろうが、それで食っていける人は一握りなのは誰もが知っているし、私も身をもって思い知っている。
だからどうか「『私が抱くのとは違う目的』で文章を書いている人」がこれを見てくれたら、何の為に書いているのかを教えて欲しいと思う。
●読者への責任を負えるのか?
氏は「読者への責任を履行すべき」と述べた訳だが、はっきり言ってこれはあまりにも当たり前すぎて私は既に心掛けていた要素だったのである。
何せ私は「自らのアイデアの発信と評価を得る事」を求めて文章を書いているのだ。
そして「評価を求める以上、他者に伝わらなければそれは発信していないのと変わらない」だろう。
読んでもらえる様な工夫、例えば余計な形容詞は削ったり、結論を先に述べたり(時に引っ張ったり)、一行当たりの文字数を考慮する等、できる事はしているつもりだ。
当然芳しい評価ばかりが得られる訳じゃないのは分かっているが、またしても「それがどうした」なのだ。
そういう評価をする人もいるし、うれしい評価をしてくれる人もいると、私は信じている。
それに、よく捉えているだけと言われるかもしれないが、そういう身に降りかかるネガティブは修行なのだと思っている。
「全ては『ある時・ある場所の為に必要なモノ』なのだ」と思っている。
その為に私は私のアイデアを伝わる形で、自由に描きたいと思っている。
■後記
物書きの形は様々であるべきだし、私の様に「自分が面白いと思ったアイデアを発信する事を目的とした形」もその中の一つに過ぎないと考えている。
そしてその中には「読み手として憧れたから、自分も同じ様に描いてみたい」と言う形がある事も。
だからこそ私は氏に「軽いと思えた」と言われて「訴えるモノの描き方を否定された様」に感じて黙っていられなかったのだ。
私は、「人間は心身の余裕の程度によってできる事が大きく変わってくる」と、「『他者から強いられる我慢』の無い、余裕ある環境・状態」が人の本来であると思っている。
そして氏は「世界の歯車である事に安寧している」と言ったが、必ずしもそうではないと思っている。
「誰もにカチッとはまる様な環境」はあって、(しかし解決すべき問題や超えるべき壁は無数にあって今は実現可能性が低いかもしれないけど)それは実現できるはずなのだ。
何せ「それを想像する事はできるのだから」。
見てくれるかは知るところではないが、それを描いた日には、氏にも見てもらいたいと思っている。
■余談:私の主義主張について(お時間があればご覧ください)
ここからはこの記事の本旨から外れる為、お時間のある方には是非ご覧いただきたいと思う。
ズバリ「私の主義主張について」だ。
上で自由について「何かをするとして、そうしたくなったらそうすればいいし、そうしたくなくなったらそれを辞めればいい」という解釈を述べたが、その延長線上にあるのが「受動的な態度は戒め、自主的・能動的な態度であるべき」という考えだ。
要は「それが利己的にしろ利他的にしろ、全ての行動の起点は自分であるべき」という事である。
私が「言われた事だけをし、それが終われば指示を待つだけという様な思考を放棄した態度」に、突き詰めれば「その結果が直接的に自分のモノにはならない企業の為に利益を上げる労働行為」に疑問を抱くのはそういう背景からなのだ。
とはいえ、受動的な態度にも「間接的には得るモノは確かにある」為、全否定はできない。
何より働き口がなければ生存に“必要なサービスの対価”を得る事ができなくなるのだから。
それに「世の分業して専門化した管理構造的」に一概に受動が悪いというつもりもない。
何故なら「同一の作業はまとめて片付けてしまった方が効率的だから」だと心得ているからだ。
つまり「俯瞰して判断する人が居て、末端で実務を遂行する人がいるのは、その方が無駄が少ないから」だ。
しかし「自分の人生まで『世界への受動』であるべきではないだろう」と思うのだ。
今や世界は情報にまみれ、スマホという窓口が止めどなくそれを流し続け、マーケティングという名目で人心は掌握されている。
ハッキリ言うと「それら営利的な刺激のせいで『何故?どうして?を考える能力』が損なわれているのではないか?」という事だ。
「『それがあると知らない人をカモに利益を啜る管理者達(政府・メガバンク・メガコープ)』によって、本来誰しもに備わっている能力が使われる事無く終わっていく人」がどれ程になるのか、考えた事はないだろうか?
「燃え尽き症候群」とは有名な現象だが、受動的労働に終始せざるを得なかった人が最後にたどり着くのがそこなのではないか?
私は「他者の自由を侵害するモノ」を忌避しているが、その頂点に位置するのが管理者達であり、その事実を訴える為に、多くの人に届けて考えてもらう為に日々言葉を探しているのだ。
私の主義主張については別記「【エッセイ】現代資本主義のアンチテーゼ『本来主義』の話」「現代の社会システムに対する『怒りと絶望』の正体」「【エッセイ】好きでもない仕事をする可哀想な人へ」をご覧いただきたい