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学生時代の小論が出てきたよ?その1(坂口安吾と、和辻哲郎から見る日本文化論)


   「日本文化私観」と『風土』


    一

 坂口安吾が、「日本文化私観」を発表したのは、一九四二年三月「現代文学」誌上(荒正人らによる同人雑誌)においてである。「私は友人に指摘されるまで、坂口安吾の『日本文化私観』を、戦後の作品であると錯覚していた」と、柄谷行人は言っているが、このような認識をされることが多いようだ。
 吉本隆明などの詩人批評家もそうだが、戦争中の知識人のなかで「主戦主義」や「天皇万歳」以外の考え方を、積極的に表明できていたものはそう多くない。鮎川信夫などの、荒地詩人たちは、前線の陸軍兵士であったためか、定かではないが、終戦の一二年前にはすでに日本の「敗戦」を予期してもいたし、「日本が勝つはずがない」と、四十三年から四十四年の日記の中に書き残している。
そのような状況のなかで、アイデンティティーの喪失にも成りうる、文化滅亡の視点を持つのは、困難であるように見える。「日本とは何か?」と問われた時に、ちょんまげであるとか、着物であるとか、金閣寺であるとか、想起するのはもっとも一般的な観念であるし、疑う者はそう多くないだろう。
外国人に日本を説明する場合にも、右のものほどわかりやすい例はなく、また私たちもそのわかりやすいものを「日本」だと、認識することで日本を知っていると勘違いしている部分があるのだから、戦争中など尚更である。
なにより、諸外国と戦うと言うことは、「国が自分自身である」と言う自己同一性に根ざして、兵士たちの戦闘士気、団結力を上げようとし(実際に上がっていたかは不明だが)、新渡戸稲造の「武士道」の理念に従うのであれば、天皇のために潔く死ぬ、と言うのは、最も日本的な「美」の在り方であっただろう。守るべきもの、共通の財産を明確にすることで、人々のヒロイズムを刺激し、殺人や自殺を正当化していた時代である。冷静な視野、客観的な視点で、「個人、人間存在の絶対的な肯定」として、歴史的な文化を批判するなど、難しいことだ。
 右のような固定観念が、自分の中にも存在していた、と言う部分に冒頭の柄谷の言葉がある。しかし、安吾の新しさは敗戦への予期や、日本のナショナリズムに根ざした、思想性の超越にあった訳ではない。
ある一つの物事を考えるにあたって、歴史的な観念や、固定的な軸で持って、その規定性から批評をしない、あらゆる悲愴を磊落な笑い(ファルス)で肯定してゆくところに、安吾の精神がある。「滅多に断言しない」と、言うのは特にそのような、安吾の流動的な視野、視点と言うものを現わしているようだ。それにも関わらず、現実を描き出せるのはなぜなのだろうか。

   昔日本に行われていたことが、昔行われていたために、日本本来のものだということは成り立たない。(中略)ゲーテがシェイクスピアの作品に暗示を受けて自分の傑作を書きあげたように、個性を尊重する芸術に於いてすら、模倣から発見への過程は最も屡行われる。(中略)
   我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が絶滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。なぜなら、我々自体の必要と、必要に応じた欲求を失わないからである。
(中略)
   タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。(「日本文化私観」一「日本的」ということ)

 安吾にとって重要なのは、文化を形成する人間のほうであり、「生活の必要」に応じて変化してゆく人間存在の在り方である。生活者の現実とは、美しいものを鑑賞することでもなければ、伝統的なものを守ることではない。着物より、通気性が良く、動きやすい衣服があればそれを着用するし、囲炉裏端より手間がかからず、調理できる火があるならそちらを使うものだ。次第発達してゆく文明にともない、便利なものを利用してゆくことで、「日本人」でなくなる訳ではない。むしろ、日本人は日本人であるからこそ、さまざまに変化していっても、その事実だけは変わりようがない、と言う存在性への決定的な確信がある。だからこそ、安吾の「日本的」は、環境がどう変化しようと、それこそ日本語など一切使わなくとも、「我々は日本人である」と言うナショナリズムの視点なのである。
 しかし、それは日本人がどう国際化してゆこうと、個人的に国外へ出て行こうと、「日本人」と言う根元の部分だけは、変化することがない。わたしたちは「日本的」というものを捨てることはできない、と言うことだ。米ばかりを食わなくなっていたとしても、やはり米をなつかしむのが、根本的な「日本人」の帰郷、帰属意識である。幼児期に経験した土地の匂いや、食べた物の味は忘れないものだ。そして、最初に味わったものほど、記憶に残りやすい。外国に行かなくとも、後年になるほどなつかしみ、何度も味わいたいと願うものである。
身体の記憶と、意識におけるイデオロギーの肯定否定は、必ずしも合致するものではない。身体の求める欲望の中に、精神がいかに否定したくとも否定できない、なつかしみが、あるいは一種の快楽がある以上、「日本的」も「何何的」も費えることはないのではないだろうか。


    二

 「生活の必要」と言う視点は最もであるが、さらに「必要性」には暮らしている土地の気質というものが関わってくる。
わたしたちは生まれている以上は、どこかある一定の土地に故郷を持っている。しかし、生まれた土地だから、ナショナリズムが生まれる、と言うことはない。文化、自己同一性の生成には、さまざまな条件が関わってくる。つまり、風土、気候、地質、さまざまな条件下のなかで、人が自然とどのように関わってゆくのか、その「間柄」において文化は生成されてゆく、と言う一面があるからだ。このような、自然と共同体との関係性から、その土地に暮らす人々の性質を論じたものに、和辻哲郎の『風土』がある。
 『風土』の初稿は昭和四年(一九三十年)に書かれ、補筆し出版をしたのは昭和十年(一九三六年)である。もちろん、当時の左翼理論への対抗として執筆されたものではあるが、和辻自身その部分を洗い落し、「シナ」に関わる論考を追加して、純粋に風土について考察した、と昭和十八年(一九四四年)の序論において改めている。
 地質や地形、気候を「自然」ではなく、「風土」と定義するのには、「自然」だけでは説明できない視点を、持っているからである。人と自然との「間柄」から生じる、「生活の必要」によって文化というものがある。ある土地に暮らす人々のなかで生まれる文化とは、ある気候の変化に対して、対抗するための道具として生まれ、その気候の変化に応じて芽吹く植物などを共有している者同士、京楽の対象にすることで、祭りや集まりが行われている。
右のような観点から、和辻は日本の特殊な気候や地質、地形を「モンスーン型」と定義した。熱帯の大洋から陸に向かって強く吹きつけてくる、夏の暑熱と湿気を多く含んだ風が、中心となっている土地のことだ。さらに、インド、シナ以外の日本特有の気候の在り方として、暖気と寒気の併存を示す。
だから、米とともに麦が耕作され、寒暖併存気候に特有の、しなやかで弾力性のある竹が生える。その竹で小屋、弓、笛、水筒なども作られ、当時の生活や京楽を支えていた。また、気候変動の著しい「四季」から、活発で鋭敏な性格を有していることを指摘している。ある対象から、ある対象へと移り変わってゆく意識の早さ、変動の早さゆえに、感情の表出の機微が細かく、突発的なものなのだ。そして、それらが日本人の性質をもっとも特徴づけている、としている。
つまり、局所的で突発的な「台風」の発生と、「寒暖の併存」にある。寒暖によって、移り変わりの激しい、短い期間内における忍従性がつくられ、台風によって激しい突発的な性格、感情が内包される。それが、日本人特有の自暴自棄、淡泊に命を捨てる傾向を強めており、反抗や抵抗の戦闘性が突発的に発生し、すぐにあきらめの忍従性へと変化してゆくのだ。
ここで、注目すべきはイデオロギーや、政治制度とはなんら関わりのない、地質や気候の特殊性、影響によって、ある土地に暮らす人々の性格の傾向を定義づけているところにある。もちろん、その性格とは「規定」しているのではなく、「傾向への物差し」であるから、細部においての差異は多少生じるだろう。
しかし、現に日本の軍隊は天皇のために兵士を殺していたし、花の散りゆく儚さに自らの気持ち、情緒を歌にしている。もちろん、第二次大戦中の特攻隊などは政府のつくりだした、「天皇制度」が機能していたからだ、国民の素養が人を殺す訳ではない、と言う反論もあるだろう。だが、実質的に一八六八年に起こった明治維新から先に行われた政治(王政復古)は、鎌倉以前の中央集権化の焼き直しに過ぎない、と言う和辻の意見には説得力がある。つまり、ある制度が機能しやすい素養を、同じ土地に暮らしている人々も、持ちやすい傾向があることを見落としてはならないのである。それは、出自の問題であると同時に、暮らしている土地の性質に根ざしている。
「近代化」と言う政府の欺瞞へ反抗する一方で、森鷗外、永井荷風、夏目漱石などの文学はある。しかし、そうした言語を超越できた明治の知識人でさえも、国の奴隷であったことは否めない。ましてや、漱石などはロンドン留学において、言語の交換さえままならない、決定的な「文化差異」と言うものを目の当たりにしている。言語の交換だけで「国」を脱せるのなら、知識人は日本に帰らなければ良い。しかし、それができない(やらない)のは、母国語の超越が困難だったからだ。言語も、土地の信仰も、食も、幼いころからの「環境」の一部として、身体の記憶に染み込んでいるからである。それは、米をなつかしむのと同じように、簡単には捨てられないものだからだ。捨てられないからこそ「文化」であり、自己たり得ている。もちろん、生まれた土地だからではない、暮らした土地だからである。
ここで、安吾に戻ろう。安吾の言う日本文化とは、「生活の必要に応じて守られるものであり、必要に応じた欲求を失わない限り、我々の文化は健康だ」と言う。必要に応じた欲求の中に、神への信仰が生まれる場合もある。稲作耕作をして、米を食いたがるのであり、寒暖に身体が適応してゆくにしたがってある精神の方向が、つくりだされてゆくものであることを、見落としてはならない。
どれだけ時代が変遷していっても、同じことだ。米をまったく食わなくなること、なつかしいと思いださないことなど、あり得ない。あり得る場合において初めて、わたしたちは土地を捨てることができるし、食文化も、肌の色も、家族も、宗教も、捨てることができるし、交換することができるのである。それは不可能であるからこそ、個人のアイデンティティーとして「文化」が問題にされるのであり、民族、宗教で差別は起こるし、戦争が起こるのではないのか。この習慣によって作り出された帰属意識のなかに、安吾の言う「帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる」のではないのか。始まりが問題視されるのは、そうした部分においてのみである。起源をくり返し行う人の在り方のなかに、つねに逸脱できない自己の問題がある。
人間存在は、イデオロギーや、精神のみで語れるものでもなければ、共同体の在り方にのみ規定されるものではない。なにより優先されるのは、生きるための必要であり、その必要によって、今後の存在の在り方と言うものが決まってくる。その始めの記憶のなかに自己があり、存在がある。安吾の指針とする自己は、絶えず変化してゆくものであり、だからこそ自己の決定するあらゆるものが「ナショナリズム」を内包し得る、と言うものだ。しかし、和辻の示すように、変化してゆく自己の指針足り得ているものは、やはり風土に根ざした身体の記憶である。このような議論において、両者が反しているようには見えない。むしろ、どれほど変化しようとも「なつかしさ」に帰ってくる自己とは、やはり風土を生きた自己であることが多いのではないだろうか。
「ナショナリズム」でさえも多様化した視点を持つよう、変化してきている今日の状況において、安吾の論じる「故郷」は、解体されてしまった自己の集積に過ぎない。しかし、それをかき集めて並べたとき、はじめて個人にとっての「故郷」を見出すことができるのかもしれない。


 参考文献・引用資料
 『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』坂口安吾 岩波文庫版
 『坂口安吾と中上健次』柄谷行人 講談社文芸文庫
 『風土』和辻哲郎 岩波文庫
 『漱石とその時代 第一部』江藤淳 新潮選書
 『日本の近代小説』中村光夫 岩波新書


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