岡田斗司夫の「エヴァンゲリオンってなに?」という質問や討論内容について、考えてみた。
岡田斗司夫という元ガイナックスプロデューサーが、一部の動画好きのなかで人気を博している。最近は新書も書いているため、聞いたことがあるだろう。
最近、夫のすすめで岡田さんの動画をよく見ていたのだが、ある討論動画を見ていて、ふと、思った疑問などを、ここでちょっと、広げてみようと思った。(夫が、書け書けうるさいねん)
一
岡田さんは非常に頭がいい。たぶん、普通にIQが高いのだと思う。そんな岡田さんが、あえてした質問に、「エヴァンゲリオンってなに?使徒ってなに?」というものがあり、うまく答えられる人がいなかった。
しかし、たぶんそうなんじゃないか、という答えもいくつか出てきたのだが、ほんの少しの言語選択の違いで、おそらく伝わっていないのを、もったいなく、思った。
使徒を、「キリストの子」と、答えた人は、おそらく「キリストの弟子」と、言いたかったのだと思う。
岡田さんは、「じゃあ、どこから来たの?」と、次には問うだろう。
そこで、みな黙り込んでしまうのは、このアニメ事態がメタファーの塊であることを、説明できないからではないか。と、想像してみた。
「エヴァンゲリオン」という作品そのものが、象徴の塊のようなもので構成されているため、わかりづらいのは当然で、おそらく、本当にわかる人はどこにも存在していないと、思う。庵野監督でさえ、「何か?」に、応えられるとは、思えない。
岡田さんの言葉を借りるなら、「アート」に近い作品だからだろう。
では、私なりに岡田さんの質問に答えてみよう。
使徒ってなに?→キリストの弟子(天使と人間の間のようなもん)
どこから来たの→天国=異世界
エヴァンゲリオンってなに?→母親の胎盤の象徴(だからこそ、シンジを求める)。また、ゲンドウ(父)の異様な執着により生成された、第二の母親。
つまり、ゲンドウは、死んだシンジの母親を蘇らせたくて、記憶だけをメモリとして、エヴァという生物のなかにインプットした。
そう考えると、シンジは息子ではなく、母親の一部(部品)であるため、あの異常なまでに「エヴァに乗れ」と、言うのにも納得がゆく。
シンジが乗れば、母親は完成する。蘇る。だから、乗れ。それだけの話である。
そして、シンジが異常なまでにエヴァに乗ることを拒絶するのは、「胎児に戻れ。お前は生まれたという事実を消せ」ということへの当然の反応である。
おそらく、シンジは生物本能的に、その異常な父親の命令を拒絶し続けるのではないか。
そこまでつきつめて、見えてくるのはゲンドウの異常さと、「お父さん僕を見て」どころではない、可哀相なまでの存在の否定に対する、戦いとも見れる。
この作品は、オイディプスコンプレックスどころではなく、すべての記号が、何かを揶揄するメタファーであることが、作品そのものの抽象度を上げているため、わかるやつはわかるし、わからないやつはわからない、というある意味では、作品として一番お客さんをつかみやすいものとして、成功しているんじゃないか、とは思う。
また、エヴァがわかったところでどうということもなく、一つの可能性でしかないため、この討論そのものに、大した生産性がない。
二
次に夫がふっかけてきた話は、映画館の交易収入のことだった。
これも結論だけ言えば、大した差はない。どちらも人は観ているし、映画館に人が行ったか、行かないかの重要性は、映画館側の問題であり、作品にはない。
エヴァンゲリオンは、鬼滅の刃と同等もしくは、それ以上に人は観ている。
ただ、時代の変遷と、時世の違いのせいで、目に見えて人が多く見えたり、少なく見えたりしているだけだ。と、話しても、納得しない面倒な夫。
つまり、エヴァンゲリオンが公開されていた時代には、人気作品だけ「公開延長」というものが通っていた。だから、長い目で見れば、多くの人が映画館に行っている。
いつからかはわからないが、街の小さな映画館以外は、「公開延長」をしなくなった。
また、鬼滅の刃が公開された時期は、コロナで大幅にあらゆる行動が抑制されていたうえに、「公開延長」がなかった。だから、人が短期間に集中して集まっている。
それだけの違いに過ぎず、どちらの作品も息の長いものとして、多くの人に愛されるだろう。
違う点を挙げるなら、エヴァンゲリオンはお客さんを「選ぶ」作品だが、鬼滅の刃はお客さんを「選ばない」作品なのではないか、という点。
「公開延長」が今はないため、人が目に見えて多く集まっている、と思う点。
そのくらいの違いに過ぎず、集客は映画館側の問題であり、作品自体は、一度映画化されてしまえば、あとでいくらでも見られるため、比較すること事態に意味がない。
では、鬼滅の刃がなぜ、人気が出たのか?については、また別の記事で話してみようと思う。
とりあえずのまとめとしては、岡田斗司夫さんは、頭がいいし、本当はわかっているくせに、リスナーをおちょくって楽しんでいるところが、なかなかだな、というはなし。
了