家族と家庭とは、なにか。
家族とは、血のつながりを持つ共同体
家庭とは、リビングを共有しあう血縁関係
家族様式が、多様化してきた現在、人の悩みは常に社会と家族あるいは、家庭にあることが、多い。
学生時から追いかけてきた、一つの課題ではあるが、いい年齢を重ねてくると、家族も家庭も、甘えあう共同体であることが、見えてくる。
そこへ、杓子定規な敬語や、距離を置いた話し方をしたがる人を、なぜか一般的には、変わったものと、見やすい。
しかし、家族だろうが、家庭だろうが、他人であることに変わりはなく、そこへ甘えが生じるがゆえに、相互の負担になる言動は、生まれがちになる。
一つに、その甘えあいは、共存関係になりやすく、相手が生きる理由になる、という甚だ窮屈な生に陥りやすい。
私は、家を持ったことがないため、戸籍だけが、家族同居しており、いつも外部から、「ご実家ですか?」と、問われ口ごもることが多い。
また、引っ越しがあまりに多いため、もはや先祖は移住民族、遊牧民だったのではないか、と夢想する。
職はほとんど、羊飼いであることが多いため、時折そのような前世を夢想しては、楽しんだ。
土着民族国家に生まれた息苦しさは、顔も知らないそうした先祖たちのため息のように、感じることがある。
ノマドは、部族として家族単位が大きいため、一妻多夫、一夫多妻が定番であったように、思ったが、曖昧な記憶をたどった夢物語かもしれない。
いまの社会に生きづらさを感じるほとんどが、実は遊牧民の先祖たちのため息であるとしたら、法治国家が一概に良いとは、言い切れないのかもしれない。
多数決を未だ、民主主義だと信じる奇妙な法治国家は、結局アジアを越えることは、なかったのだろうか。
表紙イラストレーター
アッサラーム智子さん
http://assalamutomoko.tumblr.com/