愛する人が死ぬことを知らないひと。
ふと、目が覚めて、隣で異性が寝ているのは、まだ慣れない。
同棲なしで、いきなり結婚だったので、同じベッドで、別の性器を眺めていると、ムラムラする。
雨音を聴きながら、燃えるゴミを出しに行くとき、新しい仕事のことで、頭がいっぱいになる。
良いことだとは思う。しかし、つくづくわたしは、所謂、「成功」というものに、あまり好意的ではないなあ、と感じた。
立場が、変わろうと、やはり、わたしは、わたしに過ぎず、もっと言うなら、有名無名に興味がない。と、いうか、関心が持てない。
有名になると、危ないなあ、とは思っている(笑)
そして、業界では大先輩にあたる方は、姿を消す前に、私の憂鬱を少しくすぐって、居なくなった。
わたしも、しばらく消える身であるかもしれないので、奇妙な、先を越された感があった。
彼女は、人から慕われているので、当然惜しまれていた。
有名無名に興味はないが、惜しまれる人にはなりたい、と思ってしまう。
まあ、まず、排他的な作風と、コミュ障なわたしには、無理な話だが(笑)
居なくなる時に、人は人の存在を見出す。
ある日、夫に、私が死んだらどうするか、聞いたら、「悲しいとは思うけど、また粛々と生活するよ」と、言った。
それを聞いた時、「ああ、この人は死を本当には知らないのだ」と、感じた。
親しい人間が、そばから居なくなる、ということを、知らないのだ。
親しければ親しいほど、死は、日常のふとした瞬間に、入りこむ。
彼の人が、毎日食べていたお菓子だとか、お気に入りの柔軟剤の香りだとか、お弁当に入れてくれていたおかずだとか、いつも一緒に歩いていた道だとか、そうした日常の喪失を、彼は知らない。
スーパーで、それを目にした瞬間、わっ、と沸き起こる、思い出や感情が、彼の人の死を物語る。
あのどうしようもない、感情に、彼は対面したことがない。おそらく。
ゴミステーションから、戻り、暗がりのなかで、わたしは、ふと心配になる。
彼は私が死んだら、立ち直れないのではないだろうか、と。
何故って、彼は私より、センチメンタルだからだ。
愛する人に先立たれることを知らないひと。
おちおち、先に死ぬこともできない。