SF小説 『百万ドルの虚空』その7
トラブル
ラボでの作業は、秀次には仕事などとは言えないような、気楽なものだった。出勤するのも10時頃で、VRの連続使用には制限があったので、せいぜい4時間程度で、あとは身体に影響がないか診断に30分程。午後4時頃にはほぼ終わるような内容だった。7時間働いたことにしてその後は帰っても良いと、チャーリーなどは適当なことを言っていたし、最初はどうかと思った秀次もそれに倣った。何もすることもなく時間をつぶすのも苦痛でしかない。ラボにきて1週間を過ぎていたが、もう自社に戻ってこれまでの仕事を続けられるか不安に思うこともあった。
「おじさん、今日は終わったの?」
「ああ。今日からなんか宇宙船みたいなものの操作だったな」
「私、先週からやってるよ」
マリーは秀次が仕事を終えるくらいの時間に学校から通っていた。最初は不愛想だったマリーだが、同じことをしている同僚とでも言うような人物は秀次しかいなかったので、次第に話をするようになっていた。秀次としては、おじさん、と言われるのは心外だったので、苗字で呼ぶように言ってみたが、マリーは改めようとはしなかった。
「宇宙空間に浮いているのは怖くないか?」
「ううん。別に。ゲームみたいなもんでしょ」
マリーに、VRシステムでの特異な能力について聞いてみたが、難しい話は良くわからないし、あまり興味もないと、そっけない返事だった。マリーは、割のいい楽なバイトくらいの感覚らしい。
「おじさんはゲームとかやらないでしょ?」
「昔はやってたよ。君くらいの頃は」
金髪碧眼の女子高生なんて、秀次には異星人と大差なかった。そんな少女と日本語で普通に会話して言葉で意思の疎通が取れているだけでも不思議な気がした。
日本語が流暢というのは、マリーには当てはまらない。日本で生まれて、日本以外で暮らしたことも無いマリーは、国籍上フランス人だったが、フランス語の方はあまり話せなかった。
フランス人の両親は、父親の仕事の関係で日本に滞在していたが、両親はマリーが幼い頃に離婚していた。母親はマリーを連れてそのまま日本に残ったようだ。
海老原や、マリー自身から少し聞いたところでは、フランスの文化を発信するサロンのようなものを開いたり、著作などもあるようで、それで収入をえているという母親はかなりの自由人らしかった。
マリーの方は、見た目を除けば日本の女子高生と全く変わった処もない、少しシャイな少女だった。
「仕事は終わり? 飲み会に行ったりするの?」
「飲み会? 何の?」
「え、だって、サラリーマンは仕事が終わったらお酒飲みに行くんでしょ? 今日金曜日だし」
マリーは真顔で秀次を見つめる。覗き込むような顔には、そばかすが少し浮いている。
「そういう人もいるけどな。俺はあんまり酒も強くないし」
「友達もいないの?」
返事に詰まった。マリーには悪気などないだろうだけに、直截な物言いをする。実際、田舎から上京して仕事を始めたような秀次に友人と言えるような人物はそういなかった。
「たまには会うけど、毎週ってことはないな」
「そうなの? なんかさびしいね。私は明日友達と映画と、あと買い物」
女子高生にさびしいと言われたことの方が寂しい秀次だったが口には出さなかった。
***
何かが耳元で鳴っている。薄っすらと目を開ける。頭が重い。再び目を閉じても音は消えない。秀次は漸く枕元に置いたらしいスマートフォンの着信音だと気が付いた。手を伸ばしてつかみ取るとUDLabsの文字。一瞬、何の事だか分らなかったが、ラボからの電話だと気が付いた。休日になんだと悪態をついて電話に出た。
「遠野さんですか、お休みのところ申し訳ありません。急を要する事態なので、申し訳ありませんがラボまで出勤していただけないでしょうか?」
海老原の切迫したような声。秀次は眠気が覚めてきた。
「何かあったんですか?」
自分でも嫌になるような濁った声が出た。
「電話では説明し辛いのですが。体調は大丈夫ですか?」
「え、ええ。なんとか。寝起きなので」
言い訳のように言って、部屋の時計を見る。7時15分。秀次は9時までにはそちらに着く旨伝えて電話を切った。
何があった?
昨日、ラボを出て帰宅する前に、東京に出張でやって来ていた高校時代の友人から連絡が入って、久しぶりに会って飲んで帰った頃には日付も変わっていた。思いがけなくマリーの言うサラリーマンのように仕事帰りに飲むことになった訳だった。
何か、急にオペレーションが必要な事態になったのだろうか。高校生のマリーを休日の朝早く呼び出すこともないだろうし、ここは秀次にお鉢が回ってきたということだろう。
二日酔いというほどのことも無いが、まだぼんやりと重たい頭を覚ますように水で顔を洗う。髭を剃るのもそこそこに着替えて部屋を出た。
「遠野さん、お待ちしていました」
ラボの地下研究室では、海老原が到着した秀次に駆け寄ってきた。目の下に隈が目立ち、疲労の色が濃い。
「何があったんです?」
「昨晩、小惑星探査機から分離したプローブのオペレーションをマリーが行ったんですが、プローブと通信が途絶えてしまって、VRシステムと接続していたマリーと意思の疎通ができなくなって」
「え、どういうことなんですか?」
「まだ私たちにもよく解っていないんですが、マリーの意識はあるようですが、神経系が体と切り離されたような状態になっているようなんです」
昨日、秀次が帰った後、マリーは地球の近方を回る発見されたばかりの小惑星へ向かう探査機のプローブとVRシステムでリンクした。このところ、企業による資源探査などで小惑星探査へ向かう探査機はさほど珍しくもなく、この探査機も話題にもなっていなかった。
マリーは小惑星へ向かうプローブとリンクした後、プローブが小惑星へ接近して行く間カメラを操作しているときに不意に探査機と連絡が途絶えた。
直径2km程の、卵型の小惑星を周回する軌道に入って、1kmとかなり接近したときだった。リンク先に不具合があるなら、リンクが切れるだけのはずだったが、探査機との通信は切れた状態なのに、マリーはまだVRシステムとリンクしたままだった。しかも、その状態で視覚や聴覚といった感覚が、目や耳といった肉体の感覚器官とは切り離され、VRシステムでリンクしていたプローブとだけ繋がっているような状態だという。
ラボのVRシステムは、感覚器官に割り込みをかけるような処理をしていて、システムの情報を優先し、それ以外をカットするようなことはしていない。VRシステムを使用中でも、外の物音が聞こえるのはそのためだった。それを考えると、マリーが身動きせずに意識だけあるというのは解せなかった。
「じゃあ、マリーは意識はあるんですね?」
「ええ。脳波をみていると混乱しているようでしたけど」
マリーはVRシステムユニット、コクピットとも呼ばれる椅子に座ってヘッドセットは装着したまま身動きもしなかった。腕には点滴装置が繋がり、医師と看護師も待機していた。ヘッドセットを外すことでどのような影響が出るか、不明な今は現状を維持することになっていた。
「どうして、体も動かせないんですか?」
VRシステムにリンクしていても手足は動かせたはずだったが。マリーを見て秀次は思った。
「このシステムでは、選択的に目と耳の入力系に介入していますが、脳全体が影響も受けてはいます。リンクが急に切れたことの弊害と思われますが、これはではそんな実例は無かったので詳しくは不明です」
海老原の隈の目立つ顔が曇った。
「今は精神安定剤などを投与して落ち着いてはいます。今は疲れたのか、眠っているみたいで」
マリーの眼球は動いていないが、脳波は浅い眠りを示すレム睡眠の状態となっていた。
「プローブはどうして連絡が途絶えたりしたんですか?プローブ自体の不具合? 外的な要因ですか?」
「外的な要因、ですねぇ」
少し訛った低い声が秀次の上から降ってきた。チャーリーが何時の間にか秀次の後ろに立っていた。
「何があったんですか」
不意の声に驚いたが、振り返った秀次は問い返した。
「遠野秀次さんですね。貴方に、お話することがあります」
チャーリーの傍に、もう一人、黒づくめのスーツ姿の男が立っていた。
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