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SF小説 『百万ドルの虚空』その10 終

エピローグ

 白い壁で切り取られた空は、見事なまでに青く、雲一つない。綺麗な秋晴れだった。ラボの屋上にあるベンチに座る秀次は、ぼんやりと空を見上げていた。都会には滅多にないような澄んだ青空。子供の頃に屋根に上って空を見上げたことをふと思い出した。
 この空の遠くの宇宙空間に、秀次がリンクした探査機が漂っている。それを思うと、非現実な出来事としか思えなかった。
「ここでしたか」
 海老原がやってきた。
「午後の予定が変更されました。システムの調整に1時間ほどかかるので、まだしばらく待機してもらって大丈夫です」
「そうですか。了解しました」
 海老原はベンチを手で払うような仕草をして隣に座った。
「会社はお辞めになったそうですけど、良かったんですか?」
「ええ。ま、こんなことを続けていたら元の仕事には戻れないし、しばらくは生活に困ることもないので」
 秀次は、会社を辞めて、ラボとの契約期間中は嘱託社員として働くことになった。辞表を提出するときに会社に出向いた時に、上司の福田はちょうど不在だった。元より福田ではなく、部長に辞表は提出するつもりだったし、顔も合わせたくなかったので却って有難かった。部長は特に何を言うでもなくすんなりと辞表を受け取った。東都エレクトロニクスから、何か連絡でもあったのかもしれなかったが、秀次は聞いてはいなかった。
 出向で外に出ていることの多い秀次に親しい社員は殆ど居なかったが、顔見知りの何人かとは挨拶はした。福田さんがそんなに嫌だったの? と先輩の女子社員に言われたときは苦笑いしたが、特に否定はしなかった。

「マリーは、もう復帰しないんですかね」
「さあ、どうでしょう。事故扱いになりましたし、難しいですけど」
 マリーとはあの後医務室で顔を合わせたが、流石に憔悴したような顔をしてベッドに横になっていた。マリーの件は、VRシステムの事故として片付けられて、あまり大事になるでもなく、揉み消された形だった。
「あれは、おじさんだったんだよね。ありがとう。助けてくれて」
 少しはにかんで言う様子は可愛らしかった。相変わらずおじさんというのだけは変わらなかったが。
「PASDの仕事をこれからは続けて行かれるんですか?」
「ラボとの契約は今月末までですよね。それ以降は、特に考えていません」
 秀次やマリーの奇妙な能力は、どれだけ役に立つのか。VRシステムが通信によって連絡可能な範囲にある場合、その場でリアルタイムで作業可能ではあるが、それが極少数の、現在は二人しかいない場合、どんな活用法があるのか。
 将来、火星や木星の衛星、土星のタイタンなどに人を送り込んだり、前線基地のようなものが出来た場合、その距離ゆえに、通信にかなりタイムラグは生じる。
 例えば、VRで遠隔操作できるロボットを人と一緒に送り込めば、遠野がそのロボットを遠隔操作した場合、その場にいる隊員とリアルタイムで会話は可能だ。そうして会話した内容を秀次が伝えれば、ほぼタイムラグ無しに地球と遠方の基地とで情報がやり取りできる。ただ、それが秀次という人物を介する必要がある、という、まるで古代のシャーマンにお伺いを立てるかのような方式になるのだが。
 人の脳の活動から、その人が見たり聞いたりしている内容を第三者でも認識できるようにする研究も進んでいる。それが可能になれば、秀次が見聞きしたことが直ぐに周囲に伝えられるが、そうなると、秀次はプライバシーなどのない、便利な機械のような存在になってしまう。
「PASDの仕事が一段落したら、私たちの仕事のお手伝いもしていただけると嬉しいです」
 前を向いたまま海老原が言う。
「そうですね。まあ、考えておきます」
 海老原は好意的でも、企業として研究対象となると、秀次がどういう扱いを受けるのか、まだわからない。PASDは、チャーリーのような人物だったら、使うだけ使って、使い捨てそうな気がするだけ、ましかもしれないが、どちらにしろ、秀次が望むようなものでは無いだろう。
 それに、この先、秀次の能力を知っている者たちが、そのまま放っておいてくれるとも思えない。

 マリーを救出するときにチャーリーが持ってきたのは小切手ではなく、一時的な契約書のようなものだった。簡易的にその場で契約する意図らしかったが、金額は自由に入れて下さいと言われて、秀次は大金のつもりで100万と書いた。ここしばらくボーナスなどカットされていたし、ボーナス代わりのつもりだった。三桁のボーナスなど貰ったことも無かったが。
「あー、そこは、DOLLARですが、それで良いですか?」
 そう言いつつ、チャーリーは自分が払う訳でもないからか、特に気にした様子も無かった。
 後になって本当に振り込まれているのを確認したときは、秀次は銀行でしばらく茫然としていた。地球を遠く離れた虚空での作業の代償として、それが妥当なのかどうなのか、良く判らなかったが、巨大な企業というものの力の一端をみたような気もしていた。

「どうかしましたか?」
 黙り込んだ秀次に海老原が話しかけた。
「いや、今日はやたらと良い天気だと思って」
 これまでの鬱屈したような生活を切り捨て、自身の能力を生かして法外な収入を得ていても、どこか空しい気持ちが消えない秀次だったが、今はこの澄み渡った青空に慰めを求めていた。


 これで終了です。ここまでお読みいただきありがとうございました。

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