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3月6日 テレワークをする

 キンカン、と手元で音を鳴らしているようなインターホンが鳴る。居室の戸を開けて布団をひいており、廊下から玄関までが寝た体制で見通せる。廊下は暗く、覗き穴からの光が控えめに青く光っていた。キンカン、がもう一度。私は居室の戸を閉めて、綿入り半纏を羽織り、團さんを出迎えに行く。

「災難だね。俺も気胸は五回くらいなったんだけどね、昔。今回初めてでしょ、手術しなくていいの。」

がいがいがい、團さんの口癖。福岡県筑後地方の方言で、なおざりでいいから素早く物事を処理する様子、を表しているらしい。團さんは、がいがいがいで玄関先にコンビニのビニール袋を下ろし、ノートパソコンと書類を胸の高さに上げた。

「それさ、中身、一つ冷凍のだから早く仕舞って」
コンビニの袋の中からとりわけ冷たいものを取り出し、それが何かも確認せずに冷凍庫に入れた。がいがいがい。

 昨晩、自然気胸を発症し、リモートワークをすることになった。そんな私の元に、團さんがノートパソコンと書類もろもろを届けにきてくれたのだ。團さんは慌ただしさを引きずったまま、作業手順書のここと、発注する図面の、適当でいいけど工事の様子がわかるように直してほしい、と簡単に説明をした。髪の毛に水滴がついている。三月だというのに、外は少しだけ雪が降っていた。

 團さんが帰ってからすぐに仕事に取り掛かる気にもなれず、敷きっぱなしの布団の上に綿入り半纏を羽織ってぼーっと座っていた。時間が経つにつれ、申し訳なさが込み上げて眉間がズンと痛くなってくる、息を吸うと右肩も痛くなってくる。
 どれくらいの間こうしていたかはわからないが、家の外を通り過ぎるダンプがパヒッ、と大きな音を立てたのをきっかけに立ち上がる決意をした。先ほどのコンビニ袋の中を整理する。2リットルの水、カップスープや即席麺、大体片付けたあとにひんやりとしたエクレアを一つだけ見つけた時、先ほどまでの眉間の痛みは涙になってこぼれた。子供のみぎり、風邪を引いた私に桃の缶詰めを開けた親の手元、悔しさと混乱で泣いた私に桃の飴を差し出した申し訳なさそうな篠宮、眉間の痛みと一緒に流れ落ちて、眼下のコンビニ袋にばたばたと吸い込まれていった。同時にすぐに右肩からボコボコと音が漏れ始め、泣いている場合ではない、と背筋を伸ばした。

 冷凍庫に入れたのは、カルボナーラの冷食、数週間前に買った下品な味のナポリタンの横に置いてあったものだ。全部、袋無料のあのコンビニで買ってきたに違いない。

 布団を丸めてちゃぶ台と体の間に置き、前にもたれかかるように正座し、ちゃぶ台に置いたノートパソコンに向かう。作業自体は大したことはなく、段取りができたら急にまたやる気を失ってしまった。これくらいだったらきっとすぐに終わるだろうという、過信。これでいつも最後に慌てることになると、わかっていても気が進まない。とりあえず動けば弾み車になるかと思い、手を動かしてみても気が乗らない。
「今日は気にせず、十八時に切り上げて」
「姉さん、ごめんけどこの図面も追加で」
團さんと篠宮、同時にメールをもらってもまだ時刻は九時半。これはもう十六時くらいに成果を送って、二人の返事を待ちながらゆっくりしようと思い直す。がぜん、やる気が出てきた。

 爪の甘皮を削ったり、枝毛を探したり、独り言を言ったりしながら、作業を終えて十五時。團さんと篠宮に成果を送り、寝巻きを作業着に着替えて袋無料のあのコンビニに向かった。カウンターでホットコーヒーを注文していると、目の前にいる店員は、ミルクティ色の白髪染めをし、金ピカの指輪をした五〇歳前後のあのおじさんだと気づいた。おじさんはこちらを一秒くらいじっと見て、目尻に皺をつくった。つられて、口元から微笑んでしまう。

 コーヒーを持って家に帰っても、二人からメールはかえってきてなかった。コーヒーを飲みながら、ベランダに出て雪の止んだ外を眺め、小さな声で歌い、途中でむせてしまう。右肩がまたボコッと音を立て、下を向くとウエッと情けない嗚咽が漏れた。肺から少し空気が漏れただけで、大難儀である。息を整えてもう一度、灰色の隙間に桃色が見える空を見ながらかすれた声で歌う、花の街。一番好きなのは、春の夕暮れ、の部分だ。工業地帯の灰色の空にも、不安定で美しい春が来ている。すぐに寒さに耐えられなくなって、そしてちょうど川本次長から電話がきて、ベランダをあとにした。

 川本次長の電話を要約すると、笑ってて肺が破裂するなんて聞いたことがないぞ、もうしばらく広島にいて團のサポートをしろ、この二点だ。むせながら十五分もかけてする話ではない、川本次長の電話はいつも少し長い。ハイツみずほのベランダから、広島の現場から見える景色の変遷が楽しみで仕方なかったが、浮かれた気持ちがばれないように少し困った風を装いながら広島滞在に承諾した。

 電話を切ってパソコンを覗くと、もう今日は上がっていいよ、と團さんからメールが来ていた。浮かれて、ほっとして、右肩からまた音がして、テンポ良く忙しい。私は部屋を片付けて冷えたコーヒーを温め直し、エクレアを食べることにした。

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