科学の基礎を問い返す小林秀雄の思考から-小林秀雄と柄谷行人と吉本隆明にとってのマルクス⑥-
原理的思考とは、根拠を最後まで追い求める思考であり、言い換えるならば、前提条件や思考の枠組みを形成する仮定や前提を暗黙のうちに容認するのではなく、それ自体をも問い直す思考であろう。
小林秀雄は、いたるところで、原理的に物を考えるという姿勢が出来ていないとして、「学者」や「学問」を批判している。
小林秀雄は、学者は学問の狭い固定観念に閉じ込められ、本当は考えていないとして学者を批判し、学問は方法論や概念のために、押し潰されて死んでいるとして学問を批判している。
そして、そのような学者的、学問的思考の代表として「科学主義的思考」をあげ、それを批判し、否定している。
近代の諸学問は近代物理学の成功にその存立基礎を置き、心理学や経済学や歴史学をはじめ、あらゆる近代の諸学問は、近代科学、とりわけ近代物理学の学問的方法論をモデルとして作られたようである。
言い換えれば、それらの学問の客観性の根拠は、近代物理学にあるようである。
だから、それらの学問の内部では、近代物理学的思考の当否は問題になりえないし、その近代的思考が、近代の諸学問の真理の基準や根拠になっているのだろう。
したがって、私たちが、近代学問のなかで原理的に思考しようとするとき、その学問の基礎となる「物理学」に直面せざるを得ないのだろう。
小林秀雄が、物理学に関心を向けたのも、物理学こそ近代諸学問の基礎であり、根拠であると考えたからであろう。
小林秀雄にとって、物理学とは、その原理的、哲学的思考の果てに直面せざるを得なかった究極的な学問であった。
しかし、やはり物理学も究極的な基礎学たり得ず、絶えず変動し、ぐらついている。
それなのに、私たちは、「科学」を絶対化し、それを学問や思想の方法や原理としており、「科学」の根拠を問おうとはしない。
私たちの関心は、専ら「科学」的思考に近づき、そしてその方法をいかにして上手く応用できるか、という点にしかないのかもしれない。
小林秀雄は、科学的思考とは何かを明らかにするため、その最も根本にある物理学を問うことによって、その本質を見極めようとしたようである。
小林秀雄の科学批判は、単に「科学」と「文学」、あるいは、「科学」と「人間」とを対比させて「科学」を批判したのではないことが、小林秀雄の『表現について』のなかの、
「科学の進歩は、決して停止しやしないが、科学の思想、科学的真理の解釈の仕方は変わってくる。
十九世紀に科学思想が非常な成功を勝ち得たというのも、科学が人間の正しい思考の典型であると考え、思想のシステムの完全な展開は、物事のシステムに一致するという信仰によったのであるが、そういう独断的な考えも、科学の進歩に伴い、十九世紀末には、科学者自身の間から否定されるようになりました」
ということばからもわかるのではないだろうか。
小林秀雄が問題にした科学は、科学の発展が、科学それ自体の根拠を否定するようなレベルでの科学であろう。
小林秀雄問題にしたのは、科学の基礎であり、科学主義的思考の起源であったといってよいだろう。
それは、マルクス主義、あるいはプロレタリア文学から芸術派に到るまでの、いわゆる昭和初期のあらゆる思想的流派と小林秀雄が、まったく違う位相にいたことを示してはいないだろうか。
マルクス主義者や芸術派の多くは、科学をただ信じ、それを文学や思考に応用しただけで、その根拠や起源を問題にはしなかったのではないだろうか。
そして、そのような人たちは、科学の基礎を問い返す小林秀雄の思考を、ただ、反科学的、非合理主義、独断的、といって批判したに過ぎず、科学を絶対不可侵の真理や真理の公準とみなして、科学の基礎や原理を問うことはもちろんのこと、科学を批判したり、否定したりすることなど、思いもよらぬことであったように見える。
ところで、近代物理学が近代の諸学問のモデルになっていたならば、近代物理学は、「数学」に根拠を求めたのではないだろうか。
数学的真理と数学的思考を根拠にして近代科学、つまり近代の物理学は、成立するのではないだろうか。
だからこそ、近代の物理学の確立者ニュートンはその主著を『自然哲学の数学的原理』としたのかもしれない。
しかもニュートンは、数学における「微分」の発明者のひとりであり、その「微分」を使って、ニュートン物理学のもっとも重要な基礎理論である運動の3法則のひとつを定式化することに成功した。
ニュートンは、現象的な法則と考えられていたケプラーの3法則が、数学的な必然性を持つということを、数学的に証明し、このような運動の数学的証明を根拠にして、単に天体の運動だけではなく、すべての自然現象を原理的に記述出来るという考え方に導かれ、それは、ニュートン力学的自然観といわれるものとなったのだろう。
科学史家の村上陽一郎は、『物理科学史』のなかで、
「18世紀になって、『機械論的自然観』が科学を基礎づける世界観の役割を果たすようになると同時に、物理学は科学の最も根底にその位置を占めることになった。
基本的には、ニュートン力学によってこの世界の森羅万象は、すべて記述しつくすことができる。
この確信は、19世紀にはいって、科学の諸領域が分化し、専門化したあとも、ゆるぐことはなく、今日にまで至っている」
と言っている。
物理学は、近代の諸学問の基礎学となり、近代的思考にあたっては、物理学的な世界観がその思考の前提となっており、物理学という学問の方法や成果はもはやいかなる立場からも疑うべからざる自明の真理的公準となった。
したがって、近代的思考においては、どれだけ物理的世界に忠実であり、理論的にそれに合致しているかだけが問われるようになったのであろう。
先に述べたように、近代的諸学問の基礎に物理学があり、近代の物理学の基礎に数学かあり、物理学者たちは、その物理法則の発見や証明の根拠として数学を活用した。
例えば、近代哲学の父と言われるデカルトは、アリストテレス哲学に従属するスコラ哲学、とりわけその中心思想である生物主義的な自然観に反対し、力学法則を自然の基本法則と考える機械論的自然学を提唱した。
そのとき、デカルトがよりどころとしたのは数学であり、数学こそが絶対確実な学問であるという前提から、デカルトはあらゆる思考を展開した。
無論、近代の学問や思想だけが数学に基礎づけられていたわけではなく、プラトンのアカデメイアの入り口に
「数学者(→幾何学者)にあらざれば、この門を入るべからず」というモットーが記されていたことからも明らかなように、古代ギリシャに始まるヨーロッパの学問そのものが、数学を「万学の祖」とみなしてきたのである。
例えば、柄谷行人が『マルクスその可能性の中心』以後、原理論的な思考の過程で、ゲーデルの「不完全性定理」にぶつかったのは、決して偶然ではないだろう。
柄谷行人は、結局のところ、現代のさまざまな思想的問題は「ゲーデル的問題」に還元できると言い切っているが、それは数学というものが、学問や思想に対して果たしてきた役割を考えるならば、あまりにも当然のことではないだろうか。
いずれにせよ、小林秀雄が、近代的思考の「基礎」であり「根拠」となっている物理学や数学に非常な関心を向けたことについては否定のしようがないことのように思われるのだが、このことから明らかになるのは、小林秀雄の原理性であり、ラディカルさであるように思う。
小林秀雄が、他の文芸評論家が問題にしなかった物理学や数学の基礎に向かっていった理由は、「原理的」に物事を考えるという小林秀雄本来の思考スタイルのためであろうが、それだけではなく、そこにはやはり、「科学的理論」として登場してきたマルクス主義という思想体系の影響があろう。
小林秀雄は、もし、マルクス主義が「科学的理論」であるならば、「科学的」とは何か、また、「科学」とは何か、と問題をさらに深めることにより、「科学的理論」としてのマルクス主義の虚を暴こうとしたといえるのではないだろうか。
小林秀雄は、マルクス主義者やマルクス主義の研究者たちが、マルクス主義は科学的理論であるということに満足して、専らその解釈や応用にのみ関心を向けたのに対して、科学そのものの根拠を問い返した。
その小林秀雄の原理的思考の徹底性は、驚くべきものであるように、私には、思われる。
例えば、本多秋五は、『小林秀雄論』のなかで、
「小林秀雄は、そのころの僕等の眼には変な奴としか映らなかった」
と述べたた上で、さらに、
僕等は学校の昼休みの時間に、
「あいつは、批評とは他人の作品をダシに使って、自分を語る仕事だといっているよ。」とさも奇妙そうに噂しあい、『マルクスの悟達』にいたっては、表題を見ただけで失笑するのであった。
......マルクスの学説は、科学的理論として、客観的妥当性だけを論議されるものであった。
そこに「悟達」の問題などあるべきはずのものではないと考えられていた」
と述べている。
本多秋五の甚だしい誤読は、それなりに正しい部分も在るようにも、私には、思われる。
本多秋五が
「マルクスの学説は、科学理論として、客観的妥当性だけを論議されるものであった」
というのは間違ってはおらず、問題は、当時のマルクス主義者やマルクス研究者が考えた「科学的理論」とはいかなるものであったか、ではないだろうか。
現代でも、小林秀雄出現の意味は、明確になどなっておらず、小林秀雄は依然として「変な奴」のままであるように見える。
小林秀雄が「変な奴」であったのは小林秀雄の問題意識の位相の独自性のためだろう。
恨み節になってしまうが、私に言わせれば、小林秀雄が問題にしようとしたものが、私のような一般Peopleにはあまりに異様であり、不可解だからだよう、となってしまうのである。
私のように、小林秀雄の問題意識の位相がどこにあるかを考えずに、小林秀雄を読む人間には、小林秀雄が「変な奴」として見えてしまったとしても、それは、当然の報いかもしれない。
本多秋五は、正直に、当時は小林秀雄の批評の意味が理解できなかったと言っている。
その原因は、小林秀雄には、「いかに生くべきか」という問題がなかったからだと言っている。
小林秀雄に「いかに生くべき」という問題がなかったというのは、小林秀雄の批評が原理論であったということではないだろうか。
小林秀雄が問うたのは、思考とはなにか、認識とはなにか、科学とはなにか、ということであり、それは、極めて原理的な問題であったが、小林は、日常言語で、文学作品や作家を語ることによってその問題を追求したのではないだろうか。
もし、本多にとって「いかに生くべき」かが課題であったとすれば、小林秀雄にとっては、「いかに生きているか」あるいは、「なぜ生きるのか」が重大な関心事であったといってよいのかもしれない。
本多秋五が「当為」を問題にしていたのに対して、小林秀雄秀雄は「存在」を問題にしていたのではないだろうか。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。