文学のなかの芸術、芸術のなかの文学⑨―小林秀雄『アシルと亀の子』ー(小林秀雄以降の世界のなかで①)
その登場のあと、長きにもわたって「プロメテウスのような」途方もない衝撃を与えたであろう作家や作品が存在し、それに影響された、作家や作品が存在する。
現代音楽史において大きな影響力をもつ作曲家のひとりであるジョン・ケージ以降の「実験音楽の展開」や「ケージ以降の音楽家の定義」は変わったのではないだろうか。
たとえば、1952年に発表された、ジョン・ケージの最も有名な作品のひとつである『4分33秒』は、この曲を「プロメテウスのような」と評した作曲家カイル・ガンのことば通り、ブライアン・イーノからオノ・ヨーコまで、さまざまなアーティストが『4分33秒』を参照した作品を生み出し、またアーティストや作曲家だけでなく、さまざまな分野の思想家にも多大な影響を与え、『4分33秒』に触発され、数多くのコンセプチュアルアート、実験的パフォーマンス、さらにはiPhone用のアプリが生まれるなど、今でも、この曲の革新性・重要性は広く認められているようである。
また、ジョン・ケージがジョン・ケージ以降の現代音楽の発展に及ぼした影響は、不確定性の音楽に関して作品の同一性が議論される際に、「芸術」や「作品」の概念が、近代的な芸術概念・作品概念のみならず、たとえばM・ハイデガーやポスト構造主義における芸術理解や作品概念や、ミュージック・コンクレートに広がりを持たせたことにも見られるのではないだろうか。
『4分33秒』は、曲の演奏時間である4分33秒の間、演奏者が全く楽器を弾かず最後まで沈黙を通すものである。
ケージは、「これは無音の曲ではない」と説明しており、「コンサート会場が一種の権力となっている現状に対しての異議申し立て」であると同時に、「観客自身が発する音、ホールの内外から聞こえる音などに聴衆の意識を向けさせる意図」があったが、単なるふざけた振る舞いとみなす者、逆に画期的な音楽と評する者のあいだに論争を巻き起こした。
1951年、ケージは、ハーバード大学の無響室に座っているとき「絶対的な静寂が存在しない」ことを発見した。
無響室は、ほぼ完全な無音状態を作り出すように設計されているが、ケージには甲高い音が聞こえ、「それは自分の神経系や血流が発する音だと言われた」と、彼は記しており、そのことが『4分33秒』を作曲する動機となったようである。
独特の音楽論や表現によって音楽の定義をひろげたジョン・ケージ
は、はじめはシェーンベルグに学んだが、のちに1950年代初頭には中国の易などを用いて、作曲過程に偶然性が関わる「チャンス・オペレーション」を始め、貨幣を投げて音を決めた『易の音楽』(1951年)などを作曲し、演奏や聴取の過程に偶然性が関与する不確定性の音楽へと進み、やがて、それまでの西洋音楽の価値観をくつがえす偶然性の音楽を創始し、緩く定義されたパラメータの範囲内で意図していないことが起きる作品を指向するようになっていたようである。
その一例が、プリペアド・ピアノ(打楽器のような音色にするため、弦にゴムや金属、木などを挟んだり置いたりしたピアノ)のための作品だが、これは予測がつかない音を発するよう手を加えられたピアノで演奏される。
そのようにして『4分33秒』を生み出したケージは、既成の秩序を否定するダダイズムの作家、マルセル・デュシャンや禅から影響を受け、芸術作品は固定された不変のものでなければならないという論理とは正反対の偶然性に惹かれていた。
1958年に彼はこう語っている。
「どう演奏されるかを確定しない作品の演奏は、必然的に唯一無二のものになる。同じ演奏を繰り返すことはできず、二度目の演奏は一度目と同じにはならない」
『4分33秒』の楽譜は毎回同じものだが、周囲の自然音が無限のバリエーションを生み出し続ける。
この作品は、偶然に左右される人生を反映していると言えるかもしれない。
また、この作品は、ケージ以降の実験音楽に継承・発展させられており、その展開は音楽家、否、芸術家にもみることができるだろう。
やはり、その登場のあと、長きにもわたって「プロメテウスのような」途方もない衝撃を与えたであろう作家や作品が存在し、それに影響された、作家や作品が存在する。
それも、やはり分野の壁を越えて。
小林秀雄は、サルトルやメルロ・ポンティより、思想的に深く、デリダやフーコーが言っていることは、すでに小林秀雄という文芸評論家が言っているように、私には思われる。
また、日本には、「小林秀雄以降の文芸評論家」という、哲学を語り、政治を語り、そして物理学や数学さえ語るたちがいるようにも思われる。
ジョン・ケージ以降の音楽家を考えるように、小林秀雄以降の文芸評論家とはなにか、ということについて、まずは小林秀雄の初期の雑誌連載の文芸時評である『アシルと亀の子』から考えてみたい。
中村光夫は、『小林秀雄初期文芸論集』の解説のなかで、
「昭和五年は、氏がはじめてジャーナリズムの表通りに出て、継続的に仕事をして批評家として印象づけた年であり、この四月から満一年にわたって『文藝春秋』に連載した『文芸時評』は『アシルと亀の子』という奇抜な題とも相俟って、たんに文壇の注目をひいただけではなく、広範囲の読者の関心を呼び喝采を博したので、これまで一般には未知の批評家であった小林氏が、はじめて人気の中心というべき新進文学者として登場したのです」
と述べている。
つまり、『アシルと亀の子』先立って発表されたデビュー作である『様々なる意匠』がどちらかといえば、批評の原理論であり、本質論であったのに対して、『アシルと亀の子』と題して『文藝春秋』に連載された文芸時評は、一種の情勢論であり、小林秀雄的批評の実践版であったようである。
『様々なる意匠』が読者にとって理解し難かったのに対し、『アシルと亀の子』は話題が具体的であり、現実的であったため、多くの読者を獲得し、このような連載時評の成功により、小林秀雄は批評家としての地位を確立したといえるのかもしれない。
中村光夫には、「奇抜な題」と言われてしまったが、『アシルと亀の子』は小林秀雄自身にとっては、十二分に考え抜いた末に選んだ、特別な意味を帯びた題名であったはずであり、「奇抜な題」は、ベルクソンから借用したものであろうと私には、思われる。
「アシルと亀の子」のパラドックスは、ベルクソン哲学の中心に位置する問題であり、「学生時代からベルクソンを愛読してきた」小林秀雄がこのパラドックスに関心を持ち、この題名を初期の連載時評に選んだことは、やはりベルクソンを通じててあると思われるからだ。
私たちがよく、「アキレスと亀」と呼んでいるエレア学派のゼノンのパラドックスは、ベルクソン哲学にとって、非常に重要な意味を持つパラドックスであり、その哲学の独創的な展開の端緒を開く契機となったパラドックスである。
ゼノンのパラドックス、つまり「アシルと亀の子」のパラドックスとは、紀元前5世紀に南イタリアのエレアで活躍した哲学者であるゼノンが挙げた、運動に関する4つのパラドックスのうちのひとつであり、アリストテレスが『自然学』のなかで取り上げられたために、広く世に知られるようになったのだが、ゼノンにとっても、アキレスが亀に追いつくことは、自明のことであっただろう。
ただ、その事実を説明し、理解しようとすると、矛盾が起こってしまうのである。
ゼノンのパラドックスは、単純明快な内容と、その解決の異常な難しさのために、古くからパラドックスの代表的なものとされて、多くの哲学者を悩ませてきたし、ベルクソンはゼノンのパラドックスからその哲学を開始したようである。
さて、小林秀雄は、『アシルと亀の子』と題する文芸時評を、第6回目で『文学は絵空ごとか』という題に変えてしまっている。
以後、1回ごとに題は変えられることになるのだが、小林秀雄は、『アシルと亀の子』という題名を変更したことについて、『文学は絵空ごとか』のなかで、
「毎月、『アシルと亀の子』なんて同じ題をつけているのは芸がないから取りかえろと言われて、なるほどと思い、偶々、正宗白鳥氏の文芸時評を読んでいたら、文学はついに絵空ごとに過ぎぬという嘆声に出会ったので、今月は、多くを語りたい作品もなかったし、ただわけもなくこんな表題をつけてしまった。
だが私にとっては依然として、アシルは理論であり、亀の子は現実である事に変わりはない。
アシルは額に汗して、亀の子の位置に関して、その微分係数を知るだけである」
と述べている。
『アシルと亀の子』という題名によって小林秀雄は、理論(アシル)が現実(亀の子)に追いつけないことを言いたかったのだろう。
無論、それは、理論そのものが誤った観念の上に成立した理論だからではなく、それは理論というもの常に内包する矛盾だろう。
実際的な経験の世界では、アシルが亀の子に追いつくことを、私たちは、知っているのだが、それを、理論的に説明しようとするとき、アシルは亀の子に追いつけなくなってしまうのである。
ベルクソンによれば、それは理論が、運動を運動として捉えるのではなく、運動を空間のなかで、空間化して捉えようとするからであり、分割不可能な運動を分割可能な空間の1点として捉えようとするからである。
しかし、私たちは、日常生活において、時間を空間のなかで数量化して考え、運動を空間的な点の集合として考えることに慣れきっている。
私たちが、常識として信じ込んでいる考え方は、一種の空虚な観念論に過ぎないということを、ゼノンのパラドックスは教えているようである。
時間を空間的な量として考え、運動を空間のなかで数量化して考えている限り、ゼノンのパラドックスを避けて通ることはできないだろう。
つまり、そのような常識に依拠している限り、「運動は存在しない」という奇怪な結論に辿り着かざるを得ないのであろう。
しかし、実際には、私たちは、ゼノンのパラドックスを信じず、アキレスが亀に追いつくことは自明であり、運動が存在することも自明なことである。
私たちは、いつもこの理論と現実の矛盾をほとんど感じることはないが、それは、私たちが都合の良いときだけ理論を信用し、都合が悪くなると現実を信用するという、論理的な不徹底のなかで生活しているからか、まったく理論的な分析や説明と無縁に、直接的経験のなかで生きているからではないだろうか。
小林秀雄が、文芸時評の題として「アシルと亀の子」を選んだのは、ベルクソンの影響であると同時に、小林の主な関心が、理論(アシル)と現実(亀の子)の矛盾という点にあったからであろう。
小林秀雄は、新しい理論によって、新しい解釈を提出したのではなく、彼が提出した問題は、理論と現実が一致することは決してあり得ないという、理論的思考そのものの不可能性という問題であった。
しかし、小林秀雄はあくまでも理論の人であり、理論を捨て、現実を絶対化した人ではないと、私は、思う。
小林秀雄は、あくまでも理論の人として、その理論の可能な限りの極限を目指した人であり、その理論の極限において、あらゆる理論がそのパラドックスに直面して崩壊してゆく様を、見た人のようにも、思う。
小林秀雄は、ハイゼンベルクが量子物理学で直面した矛盾が、ゼノンのパラドックスに他ならないと言っており、これにより、小林秀雄が「物理学」にこだわった理由が理解できるように思われる。
小林秀雄にとって、「物理学の革命」もゼノンのパラドックスの中にあり、それに対するひとつの解答が量子物理学だということになるのではないだろうか。
小林秀雄が、「アシルと亀の子」という題名に込めた「アシルと亀の子」は主として、マルクス主義に対する批判がテーマであったが、そのマルクス主義批判は、極めて根底的な批判であったといってよいだろう。
そして、それは、理論的な思考そのものの批判であったということができるだろう。
ただ、小林秀雄は、その批評で、絶えず理論的な思考を批判したかのように見えてしまうが、実際は、中途半端な理論を批判しただけであり、理論に対して現実の優位性を説いたわけではないだろう。
小林秀雄が、マルクス主義や科学主義に対して、激しい批判の論陣を張ったのは、それが科学的思考であったからではなく、それが科学的思考に矛盾するから、あるいは、中途半端な科学でしかなかったから批判したように、私には、思われるのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。