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小林秀雄もすべてを言った⑥ー『様々なる意匠』や「ドストエフスキイ論」たちにみる、小林秀雄の「理論物理学」に対するこだわりー

1935年に連載を開始した『ドストエフスキイの生活』から4年後の刊行時に小林秀雄は「序(歴史について)」を加え、その書き出しに、

「例えば、こういう言葉がある。
『最後に、土くれが少しばかり、頭の上にばら撒かれ、凡ては永久に過ぎ去る』と。
当たり前な事だと僕等は言う。
たが、誰かは、それは確かパスカルの『レ・パンセ』のなかにある文句だ、と言うだろう。
当たり前な事を当たり前の人間が語っても始まらないと見える。
パスカルは当たり前の事を言うのに色々非凡な工夫を凝らしたに違いない。
そしてたしかに僕等は、彼の非凡な工夫に驚いているので、彼の語る当たり前な真理に今更驚いているのではない。
驚いても始まらぬと肝に銘じているからだ。
処で、又、パスカルがどんな工夫を廻らそうと、彼の工夫なぞには全く関係なく、凡ては永久に過ぎ去るという事は何か驚くべきことではないだろうか」
と書いている。

デビューから10年に書き加えられた「序」は私たちがいかにも「小林秀雄らしい」と思えるような文章かもしれない。

まず、小林秀雄は、「例えば」と何気ない調子で「最後に、土くれが少しばかり、頭の上にばら撒かれ、凡ては永久に過ぎ去る」とパスカルのことばを持ち出し、とどめようのない時のなかで、いかなる生もまた死もただ「永久に過ぎ去る」のみだという冷酷な事実を思い起こさせ、生身のはかなさをさらりと洒脱に表現したその警句を「当たり前な事だ」といちど突き放して見せ、つづいて、「僕等」という言い方ですばやく私たちを引きこみつつ、そのようなことは常識であり、私たちは、パスカルのことばの「非凡な工夫」に驚いているのであり、そのような「当たり前な真理」に驚いているのではない、と断ずるのである。

しかし、それは、いまさら「驚いても始まらぬ」ことを、私たちが「肝に銘じて」知っているからだ、というところまで来たとき、小林はふたたび「処で」と調子を変え、パスカルの警句の「工夫」にも、またそれに対する私たちの反応などお構いなしに「凡ては平凡に過ぎ去る」ということばをあらためて持ち出し、強い大きな「驚き」を表明するのである。

しかし、このとき小林秀雄は『ドストエフスキイの生活』の連載と同じくらい、もしかするとそれ以上に「理論物理学」の研究に熱中していたようなのである。

1935年は、小林秀雄が雑誌「文学界」を創刊し、その編集責任者となった年であり、同誌に『ドストエフスキイの生活』を連載した年である。

小林秀雄は、1929年に、『様々なる意匠』で文壇にデビューしており、1935年は、小林秀雄の初期の文芸時評的仕事が一応の完成を見せた頃であり、中期の小林秀雄の出発の頃ということになり、小林秀雄が文芸評論という仕事に全力投球している時期であろう。

この頃、小林秀雄が『ドストエフスキイの生活』という、極めて重要な仕事を始めながら、理論物理学に非常な関心を持っていたということは、小林秀雄にとって理論物理学の問題が、ドストエフスキーの問題と同じくらい、もしかすると、それ以上に重要であったことを意味してはいないだろうか。

『ドストエフスキイの生活』の連載を始めたとき、小林秀雄は33歳であり、刊行時には37歳、文芸評論家として文壇にデビューしてから、すでに6年、刊行時には10年が過ぎていた。

小林秀雄にとって、物理学という問題は、単なる一時的な気まぐれの対象であったはずはなく、また、小林はこうした物理学への関心を、戦後まで一貫して持続しており、小林秀雄自身は明言していないが、小林秀雄にとって、物理学という問題が、本質的な問題を持っていたことがうかがえるように思われる。

大岡昇平は、霧ヶ峰で小林秀雄から理論物理学の講義を受けた翌年の1936年のことについて、『昭和十年前後』のなかで、

「その翌年から私は鎌倉の小林の家の近所へ下宿して、毎日のように交際ったのだが、どうも文学の話をした記憶はあまりない。
物理学やベルクソンの話ばかり記憶に残っている。
後で『文学界』の同人になった佐藤信衛と三人で、鎌倉の裏山を散歩し、佐藤から物理学者としてのデカルトの講義を聞いたこともある」
と書いている。

佐藤信衛は、小林秀雄の勧誘で「文学界」の同人となった人であり、『近代科学』(1938年)という、デカルトから量子力学までの物理学の発展と革命をわかりやすく書いた本の著者である。
小林秀雄という文芸評論家が、1935年前後、理論物理学に非常な関心を示していたことは興味深い事実ではないだろうか。

小林秀雄が、理論物理学に非常な関心を持ったのは、小林秀雄が「物理学の革命」のなかに、小林秀雄自身が体験してきた文学革命と同じものを見出したからであり、さらに小林秀雄がおぼろげにしか対象化出来なかった革命のドラマを、理論物理学は、より具体的に、より客観的に、またより徹底的に究明しつつあったからではないだろうか。

また、小林秀雄は、物理学の研究を通じて「科学とは何か」という問題を追及したのだろう。
小林秀雄は、マルクス主義という「科学」と対決するために、物理学を通じて科学の本質に触れることを必要としたようである。

ただし、小林秀雄は、物理学的知見を、文学や批評の世界に導入してはおらず、ましてや、物理学を上に置き、文学を下に置いて、物理学という高い場所から、文学を啓蒙しようなどとしていないことは重要であるように思われる。

小林秀雄は、物理学の問題は、物理学の問題として語っている。
たとえば、文学や芸術と物理学を対比して語るときでも、決して価値の優劣を前提にして語っておらず、その類似性や共通性を語るだけである。小林秀雄は、物理学の問題は、物理学の問題として語っている。

無論、少しの例外はあり、
たとえば、1932年発表の『現代文学の不安』のなかに、

「エントロピーの極大はわが身の死に等しく明瞭だ」とか、

「あらゆる原子の足元はふらつき、時空の純粋な概念も全くその意味を失ってしまった。
われわれ素人が垣間見たたけでも、これら科学の高級理論は夢に酷似している」
といった、相対性理論や量子物理学の知見が書きとめられており、小林がひそかに独自の思考をめぐらせていたことも垣間見ることができるだろう。

さて、1935年から1936年にかけて書かれた『「地下室の手記」と「永遠の良人」』と題するドストエフスキー論のなかで小林は、
「ファラデー、マックスウェルの天才以来、実体的な『物』に代わって、機械的な『電磁場的』が物理的世界像の根底を成すに至ったのは周知の事だが、この物理学者等の認識に何等神秘的なものが含まれてはいない様に、ドストエフスキーが、人間のあらゆる実体的属性を仮構されたものとして扱い、主客物心の対立の消えた生活の『場』の中心に、新しい人間像を立てたことに、何等空想的なものはないのである」
と述べている。

小林秀雄が、このようなむき出しの形で、物理学に言及したことは極めてめずらしいように思われる。

小林秀雄は、物理学の知見を持ちだせば、読者を説得することが容易であることを知り抜いていたからこそ、文学解釈において、物理的知見を使うことを避けたかったのかもしれない。

しかし、小林秀雄は、ドストエフスキー論で、もう一度「物理学の革命」のモデルを使って、ドストエフスキーの文学的行為の意味を解釈しようとしているのである。
小林秀雄は、『罪と罰』という小説の構造の変化について、『「罪と罰」について』のなかで、
「ここに現れた近代小説に於ける実体的な『物』を基礎とした従来の世界像が、電磁的な『場』の発見によって覆ったにも比すべき案件であった」
と述べている。

小林秀雄が、ドストエフスキーを論じながら、2度も、「物理学の革命」のモデルを使っているのという事実は重要なことだと、私には、思われる。

また、小林秀雄の批評作品に占めるドストエフスキーの比重は、極めて大きいが、その大きさが、ある意味では、小林秀雄における理論物理学の問題の大きさと対応しているようにも、思われるのである。

小林秀雄は、ドストエフスキーを論じながら、「物理学の革命」を「物」的世界像から、「場」的世界像への変換としてとらえており、これは、小林秀雄が、20世紀の「物理学の革命」を正確に、また深く理解し、考察していることを示すものではないだろうか。

戦前の小林秀雄のテクストのなかには、物理学の問題は、ほとんど出てこないのだが、小林秀雄は科学や物理学について、ひそかに独自の思考をめぐらせていたようである。

小林秀雄という文芸評論家が、このように理論物理学に熱中していたという事実を知ったとき、非常に驚いたことを、私は、いまだに覚えている。

小林秀雄が、ランボーやドストエフスキーに熱中することは自然であり、モーツァルトやセザンヌやゴッホに熱中することも理解できるように思うが、理論物理学に熱中していたということは、なかなか理解の出来ないことのように思われたのである。

しかも、小林は、ベルクソンを通してだけではなく、小林独自の方法で物理学に接近していったようなのである。

なぜ、理論物理学なのか。

何が、小林秀雄と理論物理学を結びつけたのか。

小林秀雄にとって理論物理学とは、どのような意味を持っていたのであろうか。

これらの問題を考えるとき、小林秀雄の著作から一貫して流れる「主調低音」のなかに、小林秀雄における「知的クーデター」とでも呼ぶべき、思考様式の革命という問題が、聞こえてくるようである。

小林秀雄は、文学の世界で小説のパラダイムから、批評のパラダイムへのパラダイムチェンジを生きた人であり、このパラダイムチェンジは、理論物理学の世界における「古典物理学」のパラダイムから、「相対論」や「量子論」のパラダイムへの変換とほぼ並行するものだろう。

小林秀雄の批評は、アインシュタインの「相対性理論」の出現と、ハイゼンベルグたちの「量子物理学」の出現とに代表される、かつてない大きな20世紀の「科学革命」という歴史的状況の中から生まれてきたものであるように、私には、思われる。

したがって、「批評家小林秀雄」の誕生という、近代日本文学史上の大きな出来事もまた、文学の内部ではもちろん、外部で起こった出来事のようにも、思われるのである。

小林秀雄は、物理学という先端の科学を知りながらも、敢えて、科学かぶれの科学主義者としては振る舞わなかったので、小林の批評はわかりにくい点がある、と、言われてしまうのかもしれない。

小林秀雄が量子物理学に興味を持つに至っだ理由は、アインシュタインにみられるような、理論物理学における「矛盾」をも恐れない過激な思考力の展開のためではないだろうか。

つまり、その学問の成立根拠を否定し、解体することをも恐れない「物理学」における革命的な情熱に対して、小林秀雄は、心動かされたのではないだろうか。

アインシュタインをはじめとして、一連の「物理学の革命」の推進者たちは、単に科学的だったわけでも、科学主義的だったわけでもなく、ただ徹底して考える人であり、小林はそこに興味を持ったのではないだろうか。

小林秀雄は、よく、非合理主義者であり、反科学的な思索家と思われることがあるが、それは、「科学主義」的でなかったことが影響しているのであろう。

だからこそ、「批評家小林秀雄」誕生のドラマが、20世紀初頭の「物理学の革命」のドラマと密接な関わりがあるとは、思われず、小林秀雄と理論物理学という問題は、あまり問題にされていないようである。

しかし、実際にこれは極めて重要な決定的な意味を持つ問題であったのである。

小林秀雄という批評家の思考様式は、「物理学の革命」が在ることを抜きにして、解明することは出来ないだろう。

たとえば、小林秀雄は数学者岡潔との対談である『人間の建設』のなかで、執拗に理論物理学に言及しているのだが、小林は、

「新式の唯物論哲学などといものは寝言かもしれないが、科学の世界では、なんとも言いようのないような物質理論上の変化が起こっているらしい」

と述べている。

つまり、小林秀雄は、「物理学の革命」の問題を「物質理論上の変化」として、正当に、しかも原理的に受け止めているのである。

小林秀雄の思考スタイルに決定的な影響を与えたものは、物理学における

「なんとも言いようのないような物質理論上の変化」であったのではないだろうか。

つまり、近代物理学(ニュートン的古典物理学)から現代物理学(相対性理論、量子力学)への変換がもたらした物質観、存在観の変容という「物理学の革命」の問題が、小林秀雄の力強く、断定的な批評を可能にしたのではないだろうか。

小林秀雄の自信に満ちたマルクス主義批判を可能にしたのも、この「物理学の革命」に対する意識であろう。

「物理学の革命」という見地から見れば、新式の唯物論哲学も、古くさい古典物理学に依拠した「科学主義」にしか見えなかったのであろう。

したがって、小林秀雄は、マルクスを巧みに利用はしたが、マルクスの理論を基にして、その批判理論を確立したわけではない。
小林秀雄がマルクスを巧みに利用したのは、マルクス主義やマルクス主義的文学運動を批判するための必要からであったようである。

小林秀雄は、マルクス主義やマルクス主義的文学運動は批判しているが、マルクスおよびマルクスの思想そのものを批判はしていない。

逆に、マルクスの思想は「正しい」と言い切っている。

たとえば、大学時代の小林秀雄について、中島健蔵は、小林秀雄全集の付録におさめられたエッセイである『バラック時代の断片』のなかで、

「三年のころには、小林秀雄とも時々話をするようになったが、彼の態度ははっきりしていた。
左翼思想について、こちらが割り切ることができず、もたもたしていると、彼は、こんなことをいった。
『マルクスは正しい。
しかし、正しいというだけのことだ。
それはなんでもないことだ。』
わたくしには、小林の言葉の意味がよくわからなかった。
大ていの芸術派は、マルクスを否定していたが、小林は、あっさりと、『マルクスは正しい』という」
と述べている。

小林秀雄にとって、マルクスの提起した問題は、ある意味では、既に解決済みの問題であったようである。

つまり、小林秀雄は、既に、「物理学の革命」という問題、つまり、新しい物質理論であり、科学理論に影響を受けていたようなのである。

たとえば、小林秀雄は『アシルと亀の子』のなかで、マルクスの思想を要約して、

「マルクスの分析によって克服されたものは経済学に於ける物自体概念であると言える。

与えられた商品という物は、社会関係を鮮明にする事に依って、正当に経済学上の意味を獲得した。

商品という物の実体概念を機能概念に還元する事に依って、社会の運動の上に浮遊する商品の裸形が鮮明された」

と言っている。

この「実体概念」から「機能概念」への転換は、実は「物理学の革命」においても起こったことである。

つまり、「物」を中心とする古典物理学が「場」を中心とする相対性理論や量子論によって克服されてゆく物理学の革命という事実から、小林秀雄は、この転換を学んだのであろう。

吉本隆明や柄谷行人たちにより、マルクスの読み方においては、マルクス主義者たちよりもむしろ小林秀雄の方が正しい読み方をしていた、と言われているが、それは、小林秀雄が物理学における「パラダイムの転換」という事実を通じて、マルクスにおける「パラダイムの転換」を読むことが出来たからではないだろうか。

「マルクスは正しい」と言いきれる小林秀雄は、マルクス的認識の一歩先を歩んでいたようである。

マルクス主義の崩壊は、直接的には、権力の弾圧によって起こったが、それだけではなく、マルクス主義が、科学を自称しながらも、十分に科学的ではなかったから、崩壊したのかもしれない。

また、ロシア・マルクス主義的な唯物論にあっては、長い間、アインシュタインの相対性理論は、科学理論として認められていなかったようである。

それは、アインシュタインの理論が、マッハ哲学の影響下に誕生したためであろう。

レーニンが『唯物論と経験批判論』でマッハを徹底的に批判しているという時代背景からもわかるように、マルクス主義者たちは、マッハ哲学を認めないのと同時に、アインシュタインの「相対性理論」をも認めようとしなかったのである。

マルクス主義が、20世紀の科学革命を無視した上で、「科学」ではなく、単なるイデオロギーであることが明らかになったとき、マルクス主義の力は急速に衰弱したのだろう。

小林秀雄は、湯川秀樹との対談『人間の進歩について』のなかで、

「二十世紀の科学の大革命が一般思想の上に大きな影響を与えたという事は承知していますが、何しろ事がいかにも専門的なものでね」

と述べた上で、

「ブルジョア文学者は偶然論がどうのこうのと愚にもつかぬ文章を書いていた。

左翼文学者は、政治にばかり目を奪われて一向科学なんかに好奇心を持たぬ。

古くさい唯物論をかかえて最近の科学の進歩はブルジョア的であるなどと言っておりました」

と述べている。

日本のマルクス主義者たちも、科学に興味を持っていたし、また科学的であることをその思想や文学の根本においておさえていた。

しかし、マルクス主義者たちが、マルクス主義という「科学」に固執していたのに対し、小林秀雄は、「科学そのもの」に直接、接近していったのではないだろうか。

そして、小林秀雄は、自然科学、とりわけ物理学が絶対的に、客観的な真理を体現しているとは思ってはいなかったようであり、小林は、むしろ、物理学がいかに基礎論という部分では、不安定な、相対的なものでしかないか、という点に目を向けていたようにも私には、思われるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、「頑張り過ぎず」、頑張りたいですね。

では、また、次回。




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