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文学のなかの芸術、芸術のなかの文学⑫ー小林秀雄『感想』①ー
人はしばしば、最も大切なものを隠そうとしたり、また隠そうとするその動作によって、最も本質的な問題が何であるかを暴露してしまうものかもしれない。
制作を開始したころには、
「制作に4年を費やしたが、結局未完に終わった」と言われ、さらに十数年間、レオナルド・ダヴィンチが亡くなるまで加筆し続けたとされている『モナ・リザ』は、未だに謎が多く、不思議な作品であり、スマーフート技法が生み出す不可解な表現、畏怖の念を抱かせる配置、複雑なデザイン、視覚的なイリュージョンなど、このユニークな作品は多くの人々を魅了し、徹底した研究の対象とされ、いまもなお私たちを魅了している。
『モナ・リザ』が完成されなかったかもしれないからといって、ダヴィンチが失敗したなどと、私たちは思わない。
しかし、それにしてもダヴィンチはなぜ情熱と持続力を持ち、描きながらも『モナ・リザ』を世に出そうとしなかったのだろうか。
確かに、『アンギアーリの戦い』や『岩窟の聖母』のように「未完」のままで、長い間、放置された作品もあるのだが、あまりにも注いだものが違いすぎるし、老成してもなお、ダヴィンチは『モナ・リザ』を華々しく公にしなかったどころか、ジョコンド家に渡しておらず、死ぬまで所有していた。
私は、『モナ・リザ』は、「完成した」としなかったところ、「思弁的でありすぎること」により世に出していないようすらみえるところに、レオナルド・ダヴィンチにとって、とても大切なものであり、かつ重大な問題をはらんでいる作品であると感じる。
ある場合には、ダヴィンチの作品の世界を覆してしまうような、極めて危険な要素を含んだ作品だったからこそ、完成しなかったとされ、華々しく公にされなかったのかもしれない。
レオナルド・ダヴィンチは誰よりも「論理的」で「思弁的」であるのにもかかわらず、「論理的」で「思弁的」な作品に対する警戒感があるのではないだろうか。
その意味でいえば、ダヴィンチにとって『モナ・リザ』は極めて危険な作品だったと言ってよいのかもしれない。
つまり、ダヴィンチの本質が、ダヴィンチ自身の警戒心を押しのけて、一気に溢れ出てきたような作品が、『モナ・リザ』であり、『アンギアーリの戦い』であり、『岩窟の聖母』であったからである。
もし、そうであるとするならば、これらの作品はダヴィンチ自身の判断とは真逆に、ダヴィンチという謎を解釈するにあたり、最も重要なヒントを与えてくる作品ということにはならないだろうか。
私は、「小林秀雄の『感想』は失敗したのではないか」という意見を聞くとき、ダヴィンチにとっての『モナ・リザ』を想起する。
レオナルド・ダヴィンチの『モナ・リザ』と小林秀雄の『感想』はよく似ているように、私には、思われる。
その理由は、両作品とも、地位を確立してのちのふたりが、いわば、最後の作品のようなものとしてかき続けた問題作であることにもあろう。
さて、小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、5年間にわたって「新潮」に連載された長編評論であるにもかかわらず、突然未完のまま打ち切られ、1冊の本になることもなく、小林秀雄自身の希望により、全集にも入っていない奇妙な評論である。
これは小林秀雄の作品のなかでも異例のことで、小林秀雄は、この長編評論を完全に無視し、失敗作として葬り去ろうとしていたかのように見える。
小林秀雄は、ベルクソン論である『感想』を打ち切るとすぐに『本居宣長』の連載を開始し、『本居宣長』は1冊の長編評論として立派な本になり、晩年の小林秀雄の代表作としての地位を獲得しており、ベルクソン論で果たし得なかったことを『本居宣長』で果たし得たかにすら見えるのだが、小林秀雄は、なぜ、あれほどの情熱と持続力をもって論じたベルクソンを投げ出し、ベルクソン論である『感想』を本にしようとはせず、ベルクソンから本居宣長に切り換えてしまったのだろうか、また、本当に切り換えたのだろうか。
小林秀雄には、ベルクソン論以外にも、初期の評論「『悪の華』一面」と題するボードレール論のように「未完」のままで、長い間全集にも収録されず、放置された作品もあるのだが、「感想」と「『悪の華』一面」とでは、その分量があまりにも違い、さらに、「『悪の華』一面」が、小林秀雄が文芸評論家として文壇にデビューする以前の、いわば、習作の域を出ない小品であるのに対し、「感想」は、文芸評論家としての不動の地位を確立してのちの小林秀雄が、いわば最後の作品、言ってしまえば、遺書のようなものとして書き続けた長編の問題作であるため、その重さは違うといわざるをえないのである。
しかし、このふたつの未完の評論は、極めて原理論的な色彩が強い作品であるという共通点があり、これは、小林秀雄の評論としては稀なことであると思われる。
江藤淳は、「『悪の華』一面」について、『小林秀雄』のなかで、
「この時期の小林の論文としては異常に論理整然としている」
と言い、全集にこの作品が収録されていないのは、
「思弁的でありすぎるのを嫌った」のかもしれないと言っているが、この「論理整然」としていて「思弁的」でありすぎるという特徴は、そのまま『感想』にも当てはまるだろう。
小林秀雄には、彼自身、非常に「論理的」で「思弁的」であるにもかかわらず、「論理的」で「思弁的」な文章に対する非常な警戒感があるようである。
その意味で小林秀雄にとってベルクソン論は極めて危険な作品だと言ってよいのかもしれない。
小林秀雄の本質が、小林秀雄の警戒心を押しのけて、一気に溢れ出てきたような作品が、『感想』であり、「『悪の華』一面」であるように、私には、思われる。
もし、そうであるとするならば、これらの作品は小林秀雄自身の判断とは真逆に、小林秀雄という近代文学史上最大のパラドックスのひとつを解釈するにあたり、最も重要なヒントを与えてくる作品ということにはならないだろうか。
特に、ベルクソン論である『感想』は、その圧倒的な分量の多さと、その問題の重要さと、小林秀雄が本にもせず、文集にも入れなかったという歴史的事実によって、その重要性を増してくるようにも思われる。
大岡昇平も、このことについて「『本居宣長』前後」のなかで、
「五十六回にわたって連載された労作はここで中断され、単行本になっていない。
小林さんの著作歴において異常なことである」
と書いている。
やはり、人はしばしば、もっとも大切なものを隠そうとし、また、隠そうとするその動作によって、もっとも重要な本質的な問題が何であるかを暴露してしまうのかもしれない。
小林秀雄とて例外ではなくて、小林秀雄のベルクソン論には、小林秀雄の本質的な課題が隠されているのかもしれない。
小林秀雄は、ベルクソン論が、彼にとって重要だからこそ、出版もせず、全集にも入れようともせず、さらに言ってしまえば、ベルクソン論は小林秀雄にとってあまりにも重要な問題を孕んでおり、ある場合には、小林秀雄の文学成果を悉く覆してしまうかもしれないような、極めて危険な要素を含んだ作品だからこそ、出版もせず、全集にも入れようとしなかったのではないだろうか。
柄谷行人は、『交通について』のなかで、
「小林秀雄のテクストはすべて管理されている」
と述べたことがある。
その意味でいえば、小林秀雄のテクストのなかで、ベルクソン論である『感想』だけが、小林秀雄の管理の手をのがれ、意識家小林秀雄の意識をこえてしまい、小林秀雄の手によっても、どうにも収拾のつかなくなった作品なのかもしれない。
しかし、小林秀雄のベルクソン論である『感想』のなかには、小林秀雄の強みも弱みもともに含まれている小林秀雄がはじめて公開した原理論の書であるということは、できるのではないだろうか。
『感想』は、小林秀雄的思考の核心を、ベルクソン論というかたちで公開したものであり、そこには、それまで見せなかった小林秀雄の素顔があるようである。
『感想』の第1回目は、小林秀雄の母の死の前後の話から始まっており、母の死にまつわるエピソードのあと、ベルクソンの「遺書」の話に及んでいる。
そして、第2回目から、ベルクソンの哲学に関する詳細な分析が始まるのだが、小林秀雄の『感想』の特色は、ベルクソンを論じるときに、「生の哲学」や「非合理主義」といった、いわゆるもうすでに、よくあるような、既製品のようなベルクソン哲学の解釈ではなくて、ベルクソンの著書のなかの論理を具体的に、ひとつひとつ検討している点にあるのだろう。
その意味では、『感想』は、ベルクソン論というよりベルクソンを素材にして、小林秀雄がさまざまな思考実験を行った評論と言った方がよいのかもしれない。
「学生時代からベルクソンを愛読してきた」小林秀雄が、自身の批評の基礎原理に深く関わりすぎているがゆえに、ベルクソンについて、具体的に語ったことはあまりなかったし、ベルクソンの名前を出して具体的に語りはじめるのは戦後のようである。
小林秀雄は、原理的な思考に裏付けられた、極めて論理的、客観的な思索を得意とする人であったが、その原理論や原理的な思考そのものを人前にさらしたことはなく、常にその批評の原点は隠されていたといってよいのかもしれない。
そのように考えるとき、『感想』は小林秀雄にはめずらしく、その原理的思考の内側を、具体的にさらけ出した作品といえるのではないだろうか。
レオナルド・ダヴィンチの『モナ・リザ』も、ダヴィンチ的思考の核心を、『モナ・リザ』という絵画のかたちで公開したものであり、そこには、それまで見せなかったダヴィンチの素顔があるようである。
そのように考えるとき、『モナ・リザ』がいまも私たちを魅了する理由は、ダヴィンチの原理的思考の内側を、具体的にさらけ出した作品だからではないかと私には思われるのである。
『モナ・リザ』も『感想』もよく知られており、さまざまな詳細な解説や分析があるが、やはりそれ以上の何かを含んでいるように見える。
次回以降で、小林秀雄の未完のベルクソン論である『感想』を中心にして、小林秀雄という批評家の「火薬庫」を見てゆきたいと思う。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。