見出し画像

サルトルの「存在と無」 1 小年生年生でもわかる説明 2 問答形式での解説 3 中学生の感想 4 短編小説 5 詩

1 小学1年生がわかるようにやさしく説明

「存在と無」というのは、フランスの哲学者(てつがくしゃ)サルトルが書いた本の名前です。この本は、人間がどういうふうに生きているのか、また「存在」ということについて考えるお話です。ちょっと難しいかもしれないけれど、わかりやすく説明してみるね。

まず、「存在(そんざい)」という言葉の意味を考えてみよう。「存在」というのは、何かが「ある」ということを意味します。たとえば、君がここにいるとき、君は「存在」していると言えます。また、机や椅子、動物や植物、すべてのものも「存在」しています。それに対して、「無(む)」というのは「ない」ということを意味します。たとえば、君が欲しいおもちゃが手に入らなかったとき、そのおもちゃは「無い」ということになります。

サルトルは、人間はただ「存在」するだけではなく、自分の「存在」を意識(いしき)していると言いました。つまり、君が自分のことを考えたり、何かを選んだりすることができるのは、「自分が存在している」ということを知っているからなんだ。このことがとても大事なんだよ。

サルトルは、人間を二つのタイプに分けました。一つは「即自存在(そくじそんざい)」で、もう一つは「対自存在(たいじそんざい)」です。今からこの二つについて説明するね。

即自存在(そくじそんざい)

「即自存在」は、石や木、動物など、自分のことを考えたりしない存在のことを言います。たとえば、道ばたにある石ころは、自分が「存在している」とは思っていません。彼らはただそこに「ある」だけです。だから、石や木は「即自存在」なんだ。

対自存在(たいじそんざい)

一方、「対自存在」は、人間のように自分のことを考えたり、どうするかを選んだりできる存在のことです。たとえば、君が「今日は遊びに行きたいな」と思ったり、「何を食べたいか考えよう」と思ったりすることは、君が自分の存在を意識しているからなんだ。このように、自分を考えることができる存在を「対自存在」と呼びます。

ここで大事なことは、君たちが「自分はこうなりたい」「これをやりたい」と思ったとき、それは君が自分の存在を理解しているからできることなんだ。だから、君が何かを選ぶときは、自分の心の声を大事にして、自由に選ぶことができるんだよ。

自由と責任(せきにん)

サルトルは、「人間は自由の刑(けい)に処せられている」と言っています。この言葉はちょっと難しいけれど、要するに「自由であることには責任がある」ということなんだ。自由というのは、自分で選ぶことができるということだけれど、その選んだことに対して自分が責任を持たなければならないということです。

たとえば、君が友達と遊ぶときに「今日はサッカーがやりたい」と言ったら、その選択に責任があるんだ。サッカーをやると決めたら、その楽しさをみんなと共有することが大切だから、そのために仲間を大切にしたり、ルールを守ったりする必要があります。つまり、選ぶことができるということは、選んだことに対してしっかりと責任を持つことも大事なんだよ。

自分を知ること

サルトルの考えでは、人間は自分を知ることがとても大事です。君が自分が何をしたいか、どんな人になりたいかを考えることで、自分の「存在」がより意味のあるものになります。たとえば、君が将来何になりたいのか、どんなことをやりたいのかを考えることは、自分を知るための大切なステップです。

自分が好きなこと、得意なことを見つけるために、いろいろなことに挑戦することも良いことです。たとえば、絵を描いてみたり、スポーツをしたり、本を読んだりして、君自身がどんなことに興味を持っているのかを知ることができます。自分を知ることで、自分の選択肢が広がり、自分の人生をより楽しいものにすることができるのです。

最後に

「存在と無」は難しい本だけど、人間の存在や自由について考えると、とても大切なことがわかります。自分が何をしたいのか、自分の選択に責任を持つこと、そして自分を知ることが、これからの人生を豊かにするために大事です。

君も、これから何かを選ぶときは、自分の気持ちを大切にして、自由に選んでみてください。その選んだことが、君の人生を素敵にしてくれるはずです。自分の存在をしっかりと感じながら、一歩ずつ進んでいきましょう!

2 問答形式で解説

はじめに

サルトルの『存在と無』は、20世紀の哲学を代表する難解な著作の一つです。問答形式で解説することで、より身近に感じ、理解を深めることができるでしょう。

Q1: 『存在と無』とは、どんな本ですか?

A1: 『存在と無』は、ジャン=ポール・サルトルが書いた哲学書です。人間の存在とは何か、意識とは何か、といった根源的な問いに対して、現象学という方法論を用いて深く掘り下げています。特に、人間の存在が「無」を伴っているという独特な視点が特徴です。

Q2: なぜ「存在と無」というタイトルなのでしょうか?

A2: このタイトルは、サルトルが人間存在の二つの側面を捉えていることを示しています。

  • 存在: 物としての存在、つまり客観的に捉えられる存在です。

  • 無: 意識としての存在、つまり自己を意識し、常に選択を迫られる自由な存在です。 人間は、存在と無の両方を同時に抱えている存在なのです。

Q3: 「対自存在」とは何ですか?

A3: 「対自存在」は、サルトルが人間存在を特徴づけるために用いた概念です。

  • 対: 自分自身に対峙する。

  • 自: 自分自身である。 人間は、常に自己を意識し、自分自身を問い続ける存在であることを意味します。

Q4: 「超越性」とは何ですか?

A4: 「超越性」は、人間の存在が常に未来に向かって開かれていることを意味します。人間は、過去に縛られることなく、未来を自由に選択することができます。この自由こそが、人間の存在を特徴づけるものです。

Q5: 「悪意」とは何ですか?

A5: サルトルにとって、「悪意」は、他者を単なる対象として扱い、その存在を否定することです。人間は、他者との関係の中で自己を形成していくため、悪意は人間関係を破壊する力を持つとされています。

Q6: 「実存は本質に先立つ」とはどういう意味ですか?

A6: この言葉は、サルトルが主張した実存主義の核心を捉えています。

  • 実存: 個々の人間の具体的な存在。

  • 本質: 一般的な人間の本質、つまり人間であることの本質。 サルトルは、人間はまず存在し、その後に自己の本質を自ら作り上げていくと主張しました。つまり、人間は、神によって与えられた本質を持つのではなく、自らの人生を創造していく自由を持っているということです。

Q7: 『存在と無』は、現代社会にどう活かせるのでしょうか?

A7: 『存在と無』は、あくまで哲学書ですが、現代社会においても様々な示唆を与えてくれます。

  • 自己理解: 自分自身を深く理解し、自分らしい生き方を見つけるためのヒントになります。

  • 他者との関係: 他者との関係性を問い直し、より豊かな人間関係を築くための手がかりとなります。

  • 自由と責任: 自由と責任の関係について考え、より主体的に生きるためのきっかけとなります。

  • 〈追加質問〉

  • Q8:「無」とは、 「意識としての存在、つまり自己を意識し、常に選択を迫られる自由な存在」だというのですが、なぜこれが「無」なのですか。

  • A8: 「無」が「意識としての存在」と等しいとされるのは、一見矛盾しているように思えますね。この理解を深めるために、サルトルの哲学における「無」の概念をもう少し詳しく見ていきましょう。

サルトルにおける「無」の概念

サルトルにとって、「無」は単なる「何もない」状態を意味するのではなく、むしろ人間の存在の根源的な特徴を指しています。

  • 人間の自由と「無」: サルトルは、人間は常に選択を迫られ、その選択によって自分自身を創造していく存在だと考えました。この自由な選択の行為は、いわば「無」から何かを創り出すようなものです。つまり、人間は、すでに与えられた本質を持つのではなく、常に「無」の淵に立って、自分自身を規定していく存在なのです。

  • 自己超越と「無」: 人間は、常に自己を超えようとする存在です。未来に向かって開かれた存在であり、過去の自分にとらわれることなく、新たな可能性を追求し続けます。この自己超越の動きもまた、「無」に向かって突き進むようなものです。

  • 他者との関係と「無」: 人間は、他者との関係の中で自己を認識します。他者との出会いは、常に新しい可能性を開き、自己を問い直すきっかけとなります。この他者との関係性も、「無」と深く結びついています。

なぜ「意識としての存在」が「無」とされるのか?

これらのことから、「意識としての存在」が「無」とされる理由は、以下のよう考えられます。

  • 自己の不確定性: 人間は、常に変化し、成長し続ける存在です。昨日までの自分が、今日の自分と全く同じであるとは限りません。この自己の不確定性、つまり「まだなっていない自分」という側面が、「無」に対応すると考えられます。

  • 可能性の開かれた状態: 人間は、無限の可能性を秘めています。まだ実現されていない、無数の可能性が、人間の内部に存在しています。この可能性の開かれた状態も、「無」に対応すると考えられます。

  • 自己創造の営み: 人間は、自分自身を創造していく存在です。この創造の行為は、いわば「無」から何かを生み出すようなものです。

まとめ

サルトルにとって、「無」は、単なる否定的な概念ではなく、むしろ人間の存在の積極的な側面を指しています。人間の自由、自己超越、他者との関係といった、人間を人間たらしめる特徴は、すべて「無」と深く結びついているのです。

3 「存在と無」を読んだ中学生の感想

サルトルの「存在と無」を読んで、まずその内容の深さに驚きました。この本は、人間の存在や自由について考える哲学書ですが、読んでいくと、自分自身のあり方や生き方について考えさせられる部分が多くありました。サルトルは、「存在」を「即自存在」と「対自存在」に分け、特に人間の「対自存在」について語っていますが、これは人間が自分自身の意識を持ち、自由に行動できることを意味しています。このことを知り、人間の自由が、ただ単に好きなことをできるという意味だけではなく、責任も伴う深い意味を持つと感じました。

サルトルの言う「即自存在」とは、石や木などの物のように、自分が存在することを意識しない存在です。一方、「対自存在」は自分自身を意識し、「自分はこうありたい」と考えられる存在であり、それは人間の特徴だとしています。自分の存在を意識できるからこそ、自分で選択をして、未来をつくっていけるという考えに、とても考えさせられました。この考え方は、「ぼくが何をするか、何を選ぶかは自分次第」ということを意味していると感じますが、それと同時に、自分の行動や選択には責任も生じることがわかり、少し重い気持ちにもなりました。

特に興味を持ったのは、サルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と言った部分です。この言葉を読んだ時、最初は少し難しく感じましたが、考えてみると、「自由」というのは自分の好きなようにふるまえることだけではないと気づきました。自由には、誰かに決めてもらうのではなく、自分で決めるという責任がともなうからです。ぼくたちは、日常の中でどんな小さなことでも選択をしていて、その選択の結果についても向き合わなければなりません。自分で何かを決めることができるというのは大きなことだけれど、その一方で、もし自分が失敗したら、それも自分の責任になるのだと感じました。

また、「人間は自分がなにであるかを決めなければならない」という考えにも考えさせられました。サルトルは、あらかじめ「自分がこうだ」と決まっているのではなく、自分で「自分がこうありたい」と考えて生きることが必要だと言います。これは、ぼくたちが自分で自分をつくっていく自由を持っていることの表れであり、そのために努力をすることが求められていると理解しました。自分が何をしたいのか、どうありたいのかを常に考え、それに向かって努力することが、ぼくたちが「存在」することの意味につながっているのかもしれないと思います。

ぼくは普段、自分の行動や選択について深く考えないことが多いけれど、この本を読んでから、自分の生き方やこれからの目標について考えるようになりました。たとえば、学校生活でも、いろいろな選択や行動がありますが、それをただなんとなく選ぶのではなく、「自分はどうしたいのか」をしっかり考えることが大事だと感じました。また、将来のことについても、自分がどんなふうになりたいのかを考え、そのための行動をしていく必要があると感じました。

最後に、「存在と無」を通して、ぼくたちが自由に生きるということは、ただ「何でもできる」という意味ではなく、その中に大きな責任がともなっていることがよくわかりました。自由には必ず責任がついてくるという考えは、今のぼくにとって少し重いものですが、これからの自分の人生にとってとても大事な考え方だと思います。この本は難しい部分も多かったけれど、サルトルの考えを通して、自分の人生をどう歩むかを考えるきっかけになりました。:

4 「存在と無」と,人が生きることを関係させた小説

夜の静かな街を一人の男が歩いていた。男の名はカケル。高校を卒業してすぐ都会に出てきて働きはじめたが、なんとなく毎日を過ごすばかりで、何かが満たされない気持ちを抱えていた。人込みに紛れ、自分の足音が街に吸い込まれていくのを聞きながら、ふと、最近読んだサルトルの『存在と無』の一節を思い出した。

「人間は自由の刑に処せられている」

その言葉は、カケルにとって重く、不思議な響きだった。「自由の刑」とはどういう意味なのだろうか。好きに生きていいはずなのに、なぜ「刑」と感じるのか。それを考えているうち、いつも自分が選び取ることから逃げていることに気がついた。

毎朝同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じ仕事をして、夜になればただ疲れて帰る。その日々に流されて、気がつけば何も選ばずに過ごしていた。だが、サルトルは『存在と無』で「人は自分で自分を決める」と言っていた。自分が「こうなりたい」と思って選び取ることが、人生の本当の意味だと。

その晩、カケルは窓の外の街の光を見つめながら、自分のこれまでの選択について考えた。親の言うとおりに学校に進み、ただ手に入れた仕事に流されてきた。自分の意志で選んだものが、果たしてどれだけあったのだろうか。

次の日、カケルはいつもより少し早く起きて、何かを変えようと思った。そして、自分の心に問いかけた。「本当にしたいことは何だろう?」そう考えた時、心の奥にある小さな声が、彼に語りかけてきた。

それは、小学生のころの夢だった。カケルは、いつか自分の作品を描きたいと願っていた。昔から絵を描くのが好きで、特に静かな風景を描くのが好きだったのだ。だが、周りから「そんなものでは生活できない」と言われて、いつの間にか自分でもその夢を忘れてしまっていた。絵を描くことに関しては、ただの趣味として、誰にも見せずに隠してきた。

「もう一度、自分で選び取ってみようか」カケルはふと思った。サルトルの言う「対自存在」は、自分を意識して自由に選択することができる存在だ。その夜、彼は筆とスケッチブックを取り出し、久しぶりに夜明けまで夢中で絵を描いた。何も考えず、ただ自分の思いのままに線を重ね、色を加えていった。夢中で描くことで、自分の中にどこか力が湧いてくるように感じた。

それからの日々、カケルは少しずつ仕事の合間に絵を描く時間をつくりはじめた。最初は絵を描くだけだったが、ある日、ふとその絵をSNSに載せてみることにした。すると、少しずつ反応が増えていき、ある日には同じようにアートを描く友人ができた。「自分の選んだ道を歩く」という意識が、彼の内側に強くなっていくのを感じた。

そんなある日、アートギャラリーの小さな展示会に参加するチャンスが舞い込んだ。自分の作品が世に出ることに少し不安もあったが、「この選択が自分の未来をつくる」と信じて、彼はその場に立つことに決めた。

展示会の夜、カケルの絵を見たある年配の女性が「この絵には、心が感じられるわね」と言って微笑んだ。その言葉に、彼の胸は暖かく満たされるような気がした。「人間は自分がなにであるかを決めなければならない」というサルトルの言葉が胸に蘇る。

その時、カケルは自分が確かに「生きている」と感じた。サルトルが語る「対自存在」は、自分を創り、未来を選びとる存在だ。そして、自分が本当に描きたいものを見つけ、それを伝えることで、彼はただの「存在」ではなく「生きること」を実感していた。

カケルは自分が本当の意味で「自由」であることを実感した。その自由は、単に好きなことをするだけでなく、自分の未来を選び、責任を持つ覚悟と一緒にあるものだった。それは「自由の刑」かもしれないが、自らの人生をつかむ喜びがそこにはあった。

5 「詩」

詩1:選択の光
迷子の魂、
夜の闇に彷徨う
自由の刑、
重く心に響く
一筋の光、
心の奥から
選びし道、
未来へと続く

詩2:自由の翼

決まったレール、
そこから飛び出す
自分探し、
果てしない旅
キャンバスに描く、
心の風景
自由の翼、
広がる空へ

詩3:存在の証

サルトルの言葉、
胸に刻む
「人間は自分がなにであるかを決めなければならない」
選んだ道、
それは自分だけの物語
存在の証、
光を放つ

  • 詩1: 選択の重要性と、それが未来へと繋がる希望を表現

  • 詩2: 既成概念から抜け出し、自分自身の道を見つける喜びを表現

  • 詩3: サルトルの哲学を踏まえ、自己実現の大切さを力強く表現

  • ・・以上です いかがでしたでしょうか


いいなと思ったら応援しよう!