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ドラキュラ(小説)


「ひっ…来ないで…」


私を見て怯える彼女に、私は優しく触れた。

地面にへたり込んだまま後退りしても、
もう後ろは行き止まり。逃げ場なんてない。

残念なことに、彼女の瞳は紛れもない化物を映している。彼女の目から溢れた涙に、今日の月と同じ私の苺色の瞳が反射した。

「おねがい、助けて…!」


ホラー映画の最後が、後味が悪いことはお決まりである。身体中の血液を飲み尽くした私は、暗い路地裏を後にした。






ひんやりとした空気が立ちこめる夜の商店街。
フォークギターで聴いたことのない歌を歌う男や、
路上で堂々と寝転がる酔っぱらい。
ここでは化物の方がよっぽどまともである。

ほとんどの店は、
まるで「化物はお断り。」と言うかのように
シャッターを閉めているが、その中でただ一軒
薄暗いバーだけが灯りを漏らしていた。


入り口には、「化物以外はお断り。」と
書かれた張り紙が貼られている。


この店に初めて来たのは太平洋戦争の時なので、もう八十年近くも通い続けていることになる。行きつけの店というより自分の家のようだ。

店に入ってエスプレッソを淹れてもらい、いつも座る椅子に座った。



「この椅子少し温くないか。」


まるで先ほどまで誰かが座っていたかのように温かった。

この椅子はもともと、手足が長い私が座りやすいようにマスターが置いてくれた私専用のような椅子で、ひとつだけ特別に脚が長い。
好んでこの椅子に座る者は私以外にほとんどいないのだ。



「あぁ、さっきまで他のお客がそこに座ってたんだ。」

「そりゃ化物かい?」

「わからない。だけど手足がすらっとしてて綺麗な女性だった。勝手に使ってすまないね。不快なら一杯分サービスするよ。」

手足が私ほど長い人間の女性などそういるはずがない。
しかし、私もつい最近そのような女性と出会ったばかりだった。


「そういえば、ちょうど最近そんな女性に逆ナンされたんだ。」

「…Qちゃんが?珍しい」

「突然声をかけられたよ。お兄さん素敵ですね、よかったらそこのお店で呑みませんか?って」


他の店で呑んだ帰り道、偶然やけに明るい通りを通った時だ。
陽気な酔っぱらいに揉まれて人酔いしそうになっていたところに柔らかい雰囲気の女性から声をかけられた。

しかしその日は、
もう一軒寄れば夜が明けてしまいそうな時間だったので、連絡先だけ交換して家に帰った。


「しかも丁度さっき連絡が来たんだ。この前のお店にいるから時間が合えばどうかって。」

恋愛経験が多くない私は、容姿を褒められたこと、今日以外にも何度かメールで誘われていたことなど、浮かれて意気揚々と話した。

聞き上手のマスターは、私が一通り話し終わってから、注いだミルクを混ぜる手を止めた。

「…なるほどね。それって、キャッチじゃない?」

「キャッチ?なんだいそれは。」

「…いや、なんでもない。薄くしといたから、飲んだら行っておいで。」

マスターは私の前にミルクで薄めたアプリコットブランデーを置いて皿を洗い始めてしまった。
呆れさせるようなことを言っただろうか。

いつものように気が向いたタイミングで、ぴったりのお代をカウンターに置き、店をでた。




待ち合わせの店に入ると、きらびやかで異様な雰囲気に一瞬気後れした。

見たことない量の札束を並べるいかにも金持ちそうな奴。
タワーのように高く積み上げられたシャンパン。

綺麗な女性は皆、悪魔やバニーなどの仮装をしていた。そういえばこういったコンセプトの店があると聞いたことがある。
立ち尽くしていると、血まみれの黒いスーツの男性が案内してくれた。

「知り合いの紹介で来たんですが…ここはこういうお店なんですか?」

「いつもこういう感じではないですね、十月三十一日なので。お兄さんもそのつもりで仮装してきたんじゃないんですか?」

お祭りみたいなものだろうか。人間からしてみたら病気のように白い肌も、今は仮装に見えるらしい。

店内を見回して彼女を探すと、違う席で何人かの男性と楽しそうに話していた。
偶然にも吸血鬼の仮装をしていた彼女は、初めて会った日と変わらず手足が長くて綺麗で、まるで本物の吸血鬼みたいだ。

「もしかして知り合いってキャストでしょうか?」

キャスト、というのは従業員のことらしい。
初めての店でシステムがよくわからなかったが、十数分ほどで彼女は席にくるようだ。

それまで違う女性が私の横にいるのだが、
妙に愛想よく話しかけてくる。顔も整っている方だし、アナウンサーか何かしているのかと尋ねると笑われてしまった。



しばらくして、彼女が私の横に座った。
ちょうど照明の真下に座ったので、元々色白な彼女の肌は溶けてしまいそうなくらい透き通り、目の上に乗せている細かいラメはまるで鱗のように輝いた。
前回会った時よりもより一層キラキラしていて、その上格好が吸血鬼なのでふとした瞬間に惚れてしまいそうだ。


「お兄さんもしかしてキャバクラ初めてだったんですか?うける。あ、でもお店とか関係なく私はお兄さんのこと好きですよ。」


「……とんでもない。」

とても綺麗な容姿の彼女が生み出す、悪くいえば教養のない独特な会話のテンポにのまれそうだ。
いつもは私が話したいことを満足いくまで話し、それにマスターがただ相槌を打っているだけなので、受け側になるのはすごく慣れなかった。


「そういえば、お兄さんお名前なんて言うんですか?」

ドラキュラです、と言いかけて言葉を飲んだ。
危ない。私が吸血鬼だとばれてしまう。
彼女が本当に吸血鬼でもない限り、私のことを嫌いになってしまうかもしれない。

「…Qです」

「へぇ!珍しい名前ですね。あっ、だから吸血鬼みたいなんだ〜!」

マスターが付けてくれたあだ名で切り抜けることができた。どうしてマスターは私のことをQちゃんと呼ぶのかずっと気になっていたが、なるほど、吸血鬼のキュウか。

「あなたの名前をお聞きしてもいいですか?」

「…えぇ〜、どうしよっかなぁ。」

名前を聞くのがそんなにまずかったのだろうか。
困り眉になって笑っている。可愛い。

「んー…、じゃあQさんなので、Pちゃんってのはどうですか?」

「なるほど。ちなみに、PはなんのPですか?」

「うーん、そうだなぁ。…ピンク?」



「…なるほど。」

なんとなく目を逸らしたらそのまま合わせられなくなって、喉の奥がギュッとなる感覚がした。
柔らかくてちょっと幼稚な性格の彼女が、
時々大人っぽかったり変なことを言ったりするのが妙に刺激的だった。

彼女が本当に吸血鬼ならいいのに。
そうじゃなかったらきっと可愛くて食べてしまう。

「あの、お仕事終わるまで待つので、一緒に帰りませんか。」

「…そっか、Qさんキャバ初めてなんだっけ。うーん、またきてくれるなら、喜んで!」

とにかくこの後もこの人と一緒にいたくて仕方なかった。どうしたら叶うのだろう。

私は右中指にはめていた母の形見のリングを外し彼女の前に差し出した。

「これで足りますか?」

「えっ…これってダイヤじゃ、」

屈託がない彼女の笑顔が突然消えた。
手の平の上に乗せて固まった表情で見つめている。失望させるほど価値がないものだったのだろうか。

「足りませんでしたか。それともアクセサリーはお嫌いでしたか。」

「う、ううん!すごく嬉しいです、ありがとう!ひとまず今日の料金も立て替えとくから、これ私にくれない?」

彼女にお花畑のような表情が戻った。よかった。
これで今日はまだ一緒にいられる。

帰りはもう一軒寄って、そのあと二人で海を見に行った。


月に照らされた夜中の海は、キラキラしてユラユラして、水面が海月のように光っている。
レザーブーツと靴下を浜辺に置いて海辺の浅いところに二人で立って並んだ。海藻が足の上を流れて、こそばゆそうに私の足が浮き足立った。

波がこのまま私たちもさらってくれればいいのに。

彼女のなびく長い髪と一緒に甘い煙が流れた。


「Pさん、煙草吸うんですね」

「煙草じゃないですよ、ココアシガレット。子どもの煙草。いい匂いでしょ」

「Pさんは子どもなんですか?」

彼女は消えかけた星を数えながら、ココアシガレットを唇に近づけたり遠ざけたりしたあと
最終的に軽くくわえて上目遣いでこちらを覗いた。


「大人ですよ。キスするときに煙草の匂いがしたら嫌じゃないですか。」



もう朝日が昇りはじめる。しかし、彼女が繋いでくれた左手を私はどうしても離したくなかった。
水平線は月を隠して燃え上がり、徐々に海辺をオレンジ色に染め出した。

私は彼女の瞳を見つめた。
彼女の瞳にはどこにも化物なんて映っていない。

ただ、眩しい朝日が反射して綺麗に透き通っていた。


「もう朝になっちゃいますね。そろそろ帰りましょうか」

彼女は手を離して浜辺の方へ行ってしまった。
追いかけようとして足を踏み出すと、

私の視界はゆらりと崩れ、夜明けの海に私の青い肌が溶けだした。

彼女は一度も振り返ることなく、砂浜を歩いている。色白な肌は透き通るようではあったが、紛れもない人間だ。

海に浮かび空を見上げた。

彼女が数えていた星はほとんど全て消えてしまっている。


最後の星を数え終えた私は、



霜月の海に流されていった。

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