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おかえり 〜捧げる生き方との別れ〜

ただいま
おかえり、じぶん

やっと こう言える日がきた、という日は 必ず訪れる。

生きていると、いろいろあって、時に大きなダメージを食らったりするけど、
それでも、時の経過とともに、ちょっとずつ回復していき、
あ、元気になってきたという瞬間を何度か重ねて、
また落ち込んで、というのを繰り返しながら、
ああ 楽になったなあと思える日が来る。

夫と、夫の両親と、子どもたちと ご飯を食べていて、父に「そこにビールがあるぞー。飲めよー」って言われるのが 好きだ。
そうして飲むビールはおいしい。

久しぶりに早く退勤して、家に着き、たまたま会った、近所の人と話す。
忙しそうだけど、だいじょうぶか、無理してるんじゃないの?って言われる。

今日はさー、子どもの部屋じゃなくて、お母さんのベッドで一緒に寝たいんだーって言われる。

ああ 帰ってきたと思う。
私の帰る場所はここ。
ここには、分かち合う時間、いのちそのものである時間が流れている。

忙しすぎて、仕事に、いや 仕事ならまだいい、そこでのくだらない流れや、思いやりのなさゆえの息苦しさをどうにかしようとして 報われなくて、時間を提供し尽くしてしまった。結局、やるせなさだけが残った。もう、できることはない。いずれ、新天地を求めて 旅立つことを考える日が来るのかもしれない、って 思うことが増えてきた。

今の社会で 働くことは、気をつけていないと、状況次第では、自分のいのちの源となる時間まで明け渡してしまう。その社会の仕組みが、自分が得をすることを最優先する人が、ちゃっかりと 毎日いい人から時間という命をもらい続ける。

本当に難しいことだけど、私は今、
仕事で他者にシェアできるものを自分が持っている、
というプライドも守りつつ、
自分の生活を守るということを 
真剣にすべき時だと思っている。


残念だけど、周囲は、他人に(上から)言われたことに従順に従い、疲弊していく姿が目につき、一方で自分を他者より優位に見せたがる、キンキンした声が次第に大きくなってきた。従順な人は倒れ、自己顕示欲の強い人の声は響き渡る。
尊敬している人の静かな声はかき消され、静かに 職場を去っていく。

どうやって、自分の命を守るか。
それには、じぶんや、じぶんの家というものとしっかり向き合うことだ。
大病をしてから後悔しても、家での時間を元気な自分で過ごすことは難しいだろう。

私は これからこの仕事をしたいという人のためにも、
自分が自分を失わない、自分を吸い尽くされない、生き方を大事にできる、そういう毎日を生きないと、と思う。
未来を創る仕事だというのに、
創る人自身が 命を削るような働き方をして、いったい次の世代に何を引き継ごうというのか。それは創造ではなく、消耗でしかない。

これまでを振り返ると、
自分が穏やかな気持ちで働けて、そして成果も上げた時は
(思い上がっていることを承知で言うと)
周囲の助言や慣習はほぼ気にしていないし、極端な場合だと、無視している。

しんどいと言いながら、変わりたくない、変えたくない人が、圧倒的に多い。
体育会系で仕事が回ると思っている人が多すぎる。
新しいアイディアを嫌がる人が多すぎる。
誰かにやってもらうことを期待して、文句は言うくせに、
古いものを捨てる勇気がなさ過ぎる。
若い人に面倒なことをさせておけ、と本気で思ってる人が多すぎる。
家庭を犠牲にしたことさえ誇りに思う、という悲しみを 私は望んでいない。

「他者に捧げろ」というように、消耗する働き方を強制したり、
「捧げる」ことを美談にしたりしてはならない。

今の世の中が、どれだけ捧げる人によって支えられているか。でも、それを美談にするだけなら、本当の感謝とは言えない。
もし捧げるとしたら、その相手は 本当に困っている相手であって、ちゃっかりもらう人や、搾取のシステムではない。

かと言って、どうすれば消耗せずに済むかは、中にいる人じゃないとわからなかったりもする。

ひと通りの経験をした人だからこそできること。去る前に、あと少しだけ、今までと違う働き方を試してみる。
それでも、どうしようもないと分かったら、その時は自分のことを守るべく、今度こそ 別の場所で生きることを選択すればいい。
とりあえず、できることをやってみよう。
次のことも視野に入れながら。

いつも忘れずにいたい。
私の帰る場所は、仕事の場とは別にあるし、
私が守りたいのは、
仕事以外の時間を生きることも当たり前だと思われる世界だ。
そういう世界だからこそ、
仕事を愛することもできるのだと思う。

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