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本を読み、言葉の力について考える

久々に「これは無理だ」と思って、買った本を手放すことにした。ついでに他の本も手放そうと整理中。仕事で多くの本を扱うので、多少手放しても部屋はまったくすっきりしないが、作業を通して、本棚が見やすくなっていくのは嬉しい。

さて、「この本は無理」となるものには、共通点がある。テーマに関して、抽象化ができていないことである。今回手放すものは、重い問題を扱っていたが、果たして当事者の気持ちをどれだけわかっているのだろうかと思った。取材した相手がいたとしたら、その相手の心情、そして読者にもその当事者がいるであろうが、その人たちが読むとしたら。読んでいて、途中で気分が悪くなってしまった(腹立たしさとかでなく、拒絶反応が起きた感じ)。

重いテーマを扱っている本でも、しっかりリサーチされ、筆者自身がプロとしてその問題に向き合い、そして描写すべき点とそうでない部分の吟味がきっちりなされていれば、読める。「書かなくていい」点は書かない、という潔さが不可欠である。リアルさを追求するあまり、問題の本質が見えなくなるような、表現の不快さやくどさが目につくと読めなくなる。名作と言われるものは、そういう点のさじ加減が絶妙なのだと思った。職人技ともいえるもの。

「この人と話していると、辛くなる」という人がいる。「相手の言葉に批評的な返し方ばかりする」人だ。「自分はそのことについて、既に熟考しており、悩んでいない」「自分は論理的に物事を見ることができる」というスタンスの言葉である。こういう返答をされると、まるで「あなたは悩んでいるけど、物事をいろんな角度から見ることができないのね」と言われたような気分になることがある。そういうあなたこそ、何をどれだけ知っているのだ、と。

本も、相手への返事も、根本的には同じ問題だ。「知った気になっていることの怖さ」である。自分の視野にあるものがすべてである、とはまさか思っていないであろうが、結果的にそういう感じを与えるような語り口。というか、相手への敬意のようなものが十分ではないのかもしれない。誰かの言葉に耳を傾け、相手に寄り添うことは、相手の言葉を分析したり、あるいは批評したり、あるいはセンセーショナルな部分に過剰な反応をすることではないのだと思う。よけいなことを言って、語った当事者を傷つけるくらいなら、「なるほど、辛いことがあって、そのことで今あなたは誰かに自分の思いを語りたいと思ったんですね。」とだけ言ってくれる方がいいかもしれない。
私自身は「今までひとりで辛かったね。でも、これからは私があなたのことをみてるから」という言葉で、救われた経験がある。その人自身が、私など比べ物にならないほどの、大変な経験をしている人だった。

仕事で、特に表現することにおいて、重いテーマを扱うには相当の覚悟が必要なことなのだと改めて思った。

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