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言霊を信じるならば、どんな言葉をかける?

 きつい言葉を放って、周囲の人を悲しませてしまう人がいて、「この人はもしかすると、そういうきつい言葉を浴びせられていたのかな」と思っていたら、案の定その通りだった、ということがしばしばあった。

 温かい言葉しか知らなければ、発する言葉もやはりあたたかい可能性が高い。そのあたたかい言葉に触れた人たちの心もまたあったかくなる。

 厳しい家庭環境で育ったら、否定的な言葉ばかり浴びせられていたら、どうしても認知の能力が下がったり、自己肯定感がズタズタになったりするのを避けられないものだろうか。そして、他者との関係を構築するのが大変なまま生きてしまう可能性が高くなるんだろうか。これは、他でもない自分のことを言っている。どんな環境でも大丈夫な自分でいられると信じたいけれど、こういう自分がどんなにがんばっても、自分の心身が脅かされたことのない人には、結局、到底敵わないんじゃないか、と 自分の能力のなさを自分のせいだけではないような分析をしたくなる時がある。最近、少し自分のエネルギーを親や高圧的な人でなく、自分のために使えるようになってきて、今までの自分の理解力の低さに気づく時があって、複雑な思いをするのだ。進歩した嬉しさと、これまで危うい力でこの世の中を渡ってきたことを知り、ゾッとするのである。

 どんなに過酷な家庭環境で育っても高い能力を発揮している人はたくさんいるんだけど。だから、自分の思いは単なる甘えだよ、とも思うけど。でも一方で、大人から深い傷を負わされた人が、自分で自分を潰してしまうケースもやはり少なくない。

 今、辛い状況にある人に「がんばっていればいつか報われるよ」とは言えない。他者が手を差し伸べられる場合と、そうじゃない場合がある。「そこを乗り越えるのは、その人でしかできない」としか考えられない状況が、どうしてもあるのだ。思春期の反抗期という表現では到底言い尽くせないほどのエネルギーを使って、親を超えなくちゃいけないことがあるのだ。機能不全家族の中で幼少期を送った人には。その過酷さたるや、他人が「努力すれば何とかなる」って無責任に言えるようなものではない。途中で力尽きてしまう人だっている。

 というところで、あえて伝えたいと思うこともある。「なんとか、今できることを続けよう」「毎日きちんと眠って、あたたかい飲み物を飲んで、ちょっと心を許している人にちょっとだけ自分の思っていることを言って、一日一日を重ねよう(言いすぎちゃうと反動でしんどくなったり、相手に期待しすぎて、人への不信感を無駄に募らせるから)」って。

 かつて、自分も 今よりずっとたどたどしい言葉だけを頼りに生きていた。運よくここまで来れた。今も私は過剰な不安感と過剰な怯えとともに生きている。そういうネガティブな思いを隠そうと、極端な行動に出てしまうことも、以前はしばしばあった。

 そういう自分なので、偉そうなことは言えないけど、なんとかやっていきたいと思ってるし、同じような状況にいる人に「一緒にがんばっていこう」っていう気持ちでいる。

 ちょっとずつでいいので、今までなんとかやってきたんだから、これからもちょっとずつね、と。

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