かつてそこにあった〜ああ諦めよう〜
何年も会っていなくても、顔を見たら、あっという間に「いつものわたしたち」に戻れる人がいる。
一方で、どんなに心を尽くして話していても、同時にこの関係はもう続かないだろうな、ということもある。ちょっとしたすれ違いで、どんどん話が合わなくなっていくとか。何か決定的なことが起きて、信頼する気持ちが粉々に砕け散った時とか。
別れって 寂しいけど、実は会えなくなることで救われることがある、と 最近思った。まあ、たとえば 別れた恋人と これからも毎日会えって言われたら 困るわけで。気持ちの整理が いつまで経ってもできませんです。
SEKAI NO OWARIの『陽炎』で
ああ 諦めよう
私たちそう思うことだけが愛と呼べるかもしれない
って あって、ほら、ね、別れも愛だわよ って確信したのだった。
しばらく会わないことで、かつてともに過ごした時間が、セピア色の優しい写真として生まれ変わる。写真を眺められるということは、過去を過去として眺められるということだ。写真の本質とは「かつてそこにあった」だというのを、本で読んだことがある。
数年前、大学の同窓会に出た。かつて昼も夜も一緒にいて、ゼミの準備で「日本語」「言葉とは」ということだけで夜を徹して語り合えたマニアックな人たちは今もやっぱりマニアックで、その空間は 鮮やかなカラーで 眩しかった。セピア色なんかじゃなかった。離れてても、ずっと私たちはセピア色の中にはいないのだった。
セピア色の中に かつて愛した人を見ることができたら それはそれで ひとつの愛だ。二度と交わることのない、まなざし。信頼や確信を求めなくてもいい、という安心。