神は細部に宿る
知人のW氏が、SNSに映画『ルックバック』の感想について投稿をしていた。
この『ルックバック』は、藤本タツキの漫画を原作にしたアニメーション映画で、今年6月の公開後、大きな話題を呼んでいる。私自身も2か月ほど前に映画館で観た。
・・・W氏の感想を一言でいうと、
「何がそんなに絶賛されているのか、よく分からない」
である。
その理由の一部を要約させてもらうと、次のようになるだろう。
たしかに、2点目の卒業証書のくだりについては、私も観たときに違和感を覚えた。
学校が日常的に発行している印刷物などならば、同級生に届けてもらうということもあるだろう。だが、さすがに卒業証書である。学校まで受け取りに来てもらうか、担任が家庭訪問をして手渡しをするのが筋だろう。
これだけでも担任は懲戒処分の対象になるだろうし、もしも届ける途中に紛失でもしたらタダではすまない。明らかにリアリティに欠ける描写だといえる。
それでも私自身はというと、
「学校関係者以外が描くと、まあ、こんなものだろうな」
と、このシーンについてはあまり気に留めなかったように思う。
実際のところ、学園もののドラマなどで描かれる「こんなもの」の例は枚挙にいとまがない。
たとえば、ある私立高校を舞台にしたテレビドラマで、校内のいじめ問題について調べるために、教育委員会の調査員たちが学校へ乗り込んでくるというシーンがあった。
しかし、これはあり得ない。各自治体の教育委員会が所管するのは、域内にある公立学校である。私立学校を所管するのは、知事部局の担当部署なのだ。
私の場合は、
(教育委員会ト言ッテイルガ、コレハ知事部局ノコトダロウナ)
と、脳内で補正を行って視聴を続けた。だが、このシーンによって醒めてしまった人もいることだろう。
おそらく、「刑事もの」「医療もの」「裁判もの」などでも同様なのだと思う。関係者が見れば噴飯物の描写や台詞が少なくないに違いない。
そして、
「こんなものだろうな」
と、あまり気にしない関係者もいれば、醒めてしまう人もいることだろう。
かつて、非行少年を主人公にした映画が制作された。その作中には、主人公が少年院に収容され、他の受刑者とともに食堂で食事をするシーンがある。
その映画の試写会には、非行少年の更生に携わっている保護司の方々が招待されていたのだが、その一人がこの食事シーンを観てこう呟いたという。
「少年院に入る子どもたちに、こんな箸の持ち方はできないよ」
受刑者を演じている若手俳優たちの大部分は、箸を上手に使いこなしている。
けれども、実際に少年院に収容される非行少年たちの大半は、その家庭環境や生育歴の影響で、満足な箸の持ち方ができないのだという。
箸の持ち方ひとつが、作品の主題にかかわることもあるのだ。
黒澤明監督の映画の一つに『赤ひげ』がある。舞台となる小石川療養所の診察室には、薬を入れる棚箱が置かれていたということで、撮影のセットでもそれが忠実に再現されていた。
しかし、フィルムには棚箱の中までは映らない。当然、小道具係は引き出しの中に何も入れていなかった。
だが、それを知った黒澤監督は激怒した。たとえ映らなくても、本来は薬が入っているはずの棚箱が空だと、リアリズムに欠けるというのだ。そして、俳優たちも薬が入っていないと知ったうえで演技をすることになるからだという。
・・・「神は細部に宿る」という言葉がある。細かい部分まで妥協をせずに仕上げることで、全体の完成度が高まるという意味だ。
細部を疎かにして、それが作品全体の出来や評価に影響してしまうのであれば、作り手にとっても受け手にとっても不幸なことだろう。