信じるのはヒトラーの10の大衆煽動方法ではない、それと真逆にある十戒
もう自分は人に何と思われても関係ない、おかしいと思われても変人と思われてもカルト的と思われようが、この心に感じたままのジャッジ、素直な言葉によって表現する。神を信じる事はおかしな事じゃないし、変人の思想でもない、だから自信を持って神を信じると言う。
誰かを愛するのに恥ずべき事などあるだろうか、それぞれ恥ずべきことをしているのだろうか、自分が愛した人は恥ずかしい人なのだろうか。その人を好きだと思い、愛して恥ずかしいと思うのはその人へ対する侮辱なんじゃないかな。だから自分は、愛した人には正直に堂々と誇りを持って愛してると言う、愛し恥ずかしいと思う人を愛したわけじゃない、素晴らしいと思うから愛した。
全ての生命、人々を愛してると、堂々と言う、まったく恥ずかしくなんかない、恥ずかしいと思える生命、人々を愛したわけじゃない。誇れる地球の仲間、同じ時代、同じ時を生きてる同じ生命同士、愛してると言って何が悪い。堂々と天使も神も愛していると言い続ける。
自分がどんな人間であるかなど関係ない、この心が愛しているから愛していると言っているだけ。
偽善とは何か、それは自分の利益のために正義を使うこと、支持を集めたり人気を集めようとすること。逆にその利益が無ければ善意は行わない、利益優先、それが偽善者の行いだと思う。そこには支配欲や物欲、金銭欲、色欲まで含まれる。人気を得たいのはお金が欲しいのと異性にモテたいから、それだけで数字の承認欲求を欲しがる。
自分がこうだから、他者も大抵こうだろうとする決めつけ、自分基準で物事を判断する勝手なレッテルやラベリング、認知バイアスによって特定の思想主義に寄り反する者をこけ下ろし淘汰しようとする、それが支配欲。支配欲は金銭欲や物欲、色欲そのもので、他者を自分の思い通りに操り利用しようとする人間の心理。
Twitter等、SNSで数字を欲しがるのは他者を支配したいから、自分の思い通りになるイエスマンの数を増やして支配したいと思うから、だからいつまでも承認欲求に溺れ数字に翻弄され続ける。その数字の上下の動きによって心は変化し、減れば不機嫌となり増えれば機嫌が良くなる。数字を増やしたいから好きな事が言えない、逆にその数字の圧力に負けて支配される、だからフォロワーとされる数字の圧力を常に気にする。
カバラ数秘術とは数字による支配そのもので、数字を操ることは世界を操る事でもあり、その数字によって人々の意識も行動もコントロールされてきた。数字を支配すれば大衆煽動できる、どんな理不尽な支配下でもその数字さえ維持できれば群衆の支配は持続可能となる。世界人口の半数以上の数字を集めたなら、その人物は世界の支配者となれる。
グローバリズムよりも危険なのが、そのSNSのような数字のカーストシステム。1人は100人となり100人は1000人となり、1000人は10000人となり、10000人は一億人となり、一億人は数億人となる。数十億人、数百億人と数が増えるほど人々は1つの共同体となりこの世を歪な個人崇拝支配世界へと導く。
だから人間など拝んではいけなかった、神のみを信じる必要があった。人類が神が望まぬ進化をするなら、それは滅びを意味する。
我々は1人であり、100人の共同体ではない。それぞれ意識を持ちそれぞれが自我を持って生きている。陰謀論者は反ワクチンで強制的な支配を懸念していたが、それを行うのが権威主義者、個人崇拝をされたアメーバ共同体を煽動する人間の独裁者。
邪な心を持つ者が、人類支配などしてはいけない、神を信じず十戒すら守れない者が全ての支配者になどなってはいけない。人類を正しい道へと導ける者は真に神を信じる者のみ。イエスキリストの心だけ。
十戒
この十戒とまったくの真逆となるものが、ヒトラーが使った群衆心理操作、大衆煽動術。プロパガンダであり、マインドコントロール、それそのものがカバラの黒魔術となる洗脳、ブレインウォッシュ。
この大衆煽動プロパガンダ洗脳を使う事自体が神に反すること。十戒が表とするならプロパガンダは裏となる。
神を信じるなら十戒を信じ、神との約束を守らねばならない。それに反するグノーシス主義カバラ、シオニストの使うプロパガンダを信じるのは悪魔を信じるのに等しい。
キリストはユダヤのシオニストによる、ユダヤ人だけが救われるとする考え方、選民意識を間違ってると言い、正そうとしていた。権利と人権と自由意思、我々側のためにある思想主義である民主主義、多様性を重んじるリベラルを最初に強く提唱していたのが他の誰でもないイエスキリスト自身だった。
その言葉には愛があり、優しさがあり、赦しがあり、正義があり、希望があり勇気があり、真っ当な道徳心がある人間の言葉ばかりだった。自分はその言葉が好きだ、それを皮肉る事、揶揄したり馬鹿にしたり見下したり屁理屈を並べたり、思想主義からなる都合の良い解釈をしたり、目を背けたり誤魔化したりするのを見るのは嘆き憤る。
迷いし小羊
こんな言葉を残すようなイエスキリストが許しなき偏見主義の極右思想など持っていたと思うだろうか。この表現の全てはシオニスト、拝金主義者、偏見者を否定した、民主主義を重んじた優しさと赦しからの言葉。
自分は聖書の言葉を引用するが、プロテスタントでもカトリックでもないし、キリスト教徒やユダヤ教徒でもイスラム教徒でもない、仏教徒でもない、カルト宗教にも入ってなければ立ち上げてもいないし、カルト集団をやるつもりなど更々ない。スピリチュアリストでもニューエイジ思想でもない、特定の思想主義になど属していないし右翼左翼でもない、陰謀論者でも無ければヒューマニストでもない、しかし無神論者ではない有神論者。
何にも属していないし群れてなどいない、仲間も友達もいない、家族親族すら心は離れた、自分に残されたのは常に側に寄り添っていてくれるもう1つの命、猫だけ。孤独だがまったく孤独じゃない、子供の頃から常に1人だった、1人でいることを望んだ。だから世界中の人に嫌われても蔑まされても、馬鹿にされても揶揄されても、この世界にたった1人のような状況に居ようとも決して媚びない、従わない、弱味など見せない、何者かに屈する心など持ってはいない。
この心の中にある愛が神を信じると言うなら、これから先も疑わずに、それを素直に受け入れ生きて行く。世界中の全ての人が神を信じなくなっても、自分は最後の1人になっても屈強な心で最後まで信じ生き続ける。