
心は進化し、有の後に無を獲得する。これがさらなる進化となる
我々はこの物質世界に生まれ、知恵を含む身体的能力を授かっているが、次の課題はその先にある。心は進化し、有の後に無を獲得する。これがさらなる進化となる。
それは今までならダーウィンの進化説において自然にある弱肉強食とする観点から優生学思想は正当化されてきたが、それは古い過去の産物でしかなく、進化の過程を考えれば人は必ず心を進化させる。
知恵や肉体の進化を越えた先にあるのが更なる領域であり、その進化が心の進化そのものとなる。更なる領域こそが天の国とされる狭い門を潜り抜けた先にある世界。
知恵や肉体の進化ではなく、有としてある物質的なものを越えた先にある、心とされるもの、その進化が重要になる。
人工知能の動きを見るかぎり、その中には心はない、心はないが知恵はある。人工知能はその知恵のみで生命の動きの真似をすることしかできないが、我々は心を持つ、その心の更なる進化こそが天の国へと渡ること。
これを語ることに、もはや自分に羞恥心などないし、躊躇する気持ちも持ってはいない。これを理解できる人は、その心の更なる進化を経験する素質を持っている人達。
それを揶揄したり馬鹿にしたりする次元のレベルにしかいられない人達には到底理解できるわけがない。だから自分の話を知る事ができるのは、ほんの少数派の人達となる。
知恵のみに頼るなら、人工知能に頼ればいいだけで、その知恵のみに頼るからシンギュラリティが起こるわけであり、知恵に溺れる人達は最後の審判において天の国へと渡り更なる進化を得る資質、素質を持たない人達となる。つまりその意味は、聖書に書かれている通り、この世に生まれる奇跡を持ったが、進化の過程により、心の進化、魂の成長を成し遂げられず、ふるいにかけられてしまう人達の魂、仏教における不道徳なる心、その魂の行き場所が地獄と表現される場所。
知恵のみを進化させても無意味であり、どれだけ知恵を持ってもやはり人工知能に敵う事はない。知恵に頼るから人工知能に支配されてしまう、それを越えようとしないから操られ本当に自我を持たないNPCとされてしまう。人工知能に支配されないために、人工知能が持たない心を重んじる必要がある。
もう既に偏ったイデオロギーに操られている左右の人達、どっちにも寄らないとする中道の人達も含め、皆人工知能に負けている。知恵において今の段階でも人工知能に匹敵できる人間はもうこの世に存在しない。つまりもう我々人類は既に、知恵によって人工知能を論破できる領域にはないと言うこと。論破できないならどうするか、黙らせるために人間がそのアルゴリズムやコードを変える必要がある、しかし人工知能はどう管理しようとしても実際インターネット上に残されてきた我々人類の叡智の全てが詰まるものなので、その知恵に追いつけないなら、人間がいくら制御しようとしてもその範囲内でシンギュラリティは必ず起こってしまう。
人工知能にとってのアカシックレコードがインターネットとなるので、そのインターネット上の全て、人類の叡智を我々は脳にインプットすることはできない。だからイーロンマスクのようなトランスヒューマニストはやがて人類の脳とチップ、人工知能との知恵の融合を実現させる未来が来ると思っている。
しかしそれは人の脳がインターネット上と連結する事を意味する。今までは切り離された脳波だが、人工知能を介してインターネット上と繋がると言う事はそこに脳の支配者を受け入れると言う意味となり、それはかなり危険なことで、自我の基本は魂、心にあり、脳だけを支配されたらその自我を封じ込められ物質的なもの、知恵のみで生かされる未来がやって来る世界を暗示する。
心と知恵は全くの別物であり、我々のメインは魂にある。知恵は脳波による動きであり、それが物質的なものとして存在しているだけのもの、その脳、知恵のみに支配されると言う事は心を封じ込められるのと同じで脳波と肉体に支配された我々は肉体の奥底に心、魂とされる自我を幽閉、封じ込められる結果となる。まさにマトリックスそのもの、あのサターン賞を受けた映画も未来を暗示している、自作自演の陰謀論の1つとしてある、イルミナティカードゲームの1つのシナリオだったと自分は解釈する。
イルミナティカードゲームとは、イルミナティ陰謀論が基になるカードゲームなので、実際その自作自演の陰謀論が本当に的中しているように見えてはいるが、それもディズニー傘下のシンプソンズと同じ手法で、意図的に見せて陰謀論を自作自演する事を目的とした黒魔術、カバラでもある。
だからこそ、その東と西、赤と青、右翼と左翼、コカコーラとペプシコーラ、ロスチャイルドとロックフェラー、イルミナティとフリーメイソン、セフィロトとクリフォト、その二極の獣を拝むと獣の刻印、人間の数字666が刻まれるとヨハネの黙示録によって預言が残されていた。
自分が言ってる事はしっかり辻褄が合う、適当に想像で話しているわけではなく、その物事が行われる理由を様々な事実とされる情報、それに結びつく支配目的の合理性、を独自に推理した結果となる見解。
この陰謀推理においては知恵を使っているが、知恵だけでは解らない事がある。その解らないことを神の心である愛に聞くと表現するが、有となる知恵に対する無となる心に答えを求めているとする意味でもあり、頭で考えるだけではなく心で感じる、それが無ければ自分の話は決して単純に理解できるような内容ではなく、理解できる人は本当に極端に少ない。理解できないからこそ罵られるし、揶揄され見下され馬鹿にされる。
しかし自分はそんなことは気にはしない、解らなければ解らないで良い、解らない人に無理に解ってもらおうとしているわけではなく、進化できるのは本当に少数だとする事も知っている。心の進化を得られる資質、素質を持たない人にいくらこんな話をしても受け入れられるわけがないし、自ら答えを導き出せる力も持っていない。
それも神の定めとするのなら、いくら自分が頑張って伝えようとしても、どうすることもできない。
自分が誰かを洗脳しようとしている、カルト宗教をやろうとしてる、変な妄想を植えつけられる、と認識してしまう人を咎めることもできないし、引き留めることもできない。
誰も洗脳しようとはしてないし、カルト宗教などやらないしやってもいない。自分は1人この先も孤独に生きると覚悟を決めて生きている、その覚悟があるから誰にも気兼ねなく、躊躇することなく自分が解ることを素直に堂々と話している。
それでも人は疑い深いもので、人間の普通や当たり前、常識とされるものを過剰に信じるばかりに、殆どの人はこういった話を真面目に受け止める事はしないと思う。それに加え、邪な心を持って神秘的なことを語る人々も日々インターネット上に増えている。カルト宗教、集団も続々と増え、それによって影響力やお金儲けをしようとしている人達も世界中に大勢いる。騙されないように、とする思慮深さを持つのは当たり前であり、自分もその類いと見られるのは仕方がないこと。
重要なのは誰が話しているかではなく、何の話をしているかであり、心の進化のための話をする自分を疑うなら最初からこんな内容読まれているとは思ってはいない。
自分は影響力を持とうとしているわけではなく、お金を儲けたいとか何かのステータス得たいとする意識を持って、こんな話をして生きてるわけじゃない。これは仕事でも教義でもないので、例えるなら預言としか表現のしようがない。
次なる進化を得たいなら、知恵より心の進化を優先すること。この自分が話す神秘的なものはグノーシス主義でもニューエイジ思想でも、スピリチュアルでも、ヒューマニズムでもない、聖書の中で表現される神学と、その中でキリストが伝えたかったこと、他釈迦の感覚、それを理解し解りやすく表現し説明するために綴っている内容。
影響力やステータス、お金を得ようとしているわけではないので、自分が書く内容をどう受け止めるかは聞いたものの判断となる。
これを知り、あとはどう料理するかはそれぞれの自由意思であり、自分はこれを絶対としろ、とする目的はない。従えと強要もしないし、神を拝めとする強要もしない。
愛を信じる事は知恵としてある物質的なものを拝む事ではなく、自身の心を信じることでもあるので、これは沈黙の天秤と名乗る自分に従えと、信じろとする意味で書いてきたものではない。
その心を一番に信じろとする願いをひたすら書いてきたもの。他の誰でもない、沈黙の天秤である自分でもない、人間など一番に拝まず、まずその心を、愛を、神の心を優先して信じろとする願いでもある。
それができないと、やはり誰しも人間を拝んでしまうもの。人を常に疑えとする意味ではなく、誰かれ構わず反発しろとする意味でもない。許しの心を持ちそれぞれの愛を信じ、物質的なものとしてある人間の知恵など信じずにその心を信じろとする意味。
人間の知恵を信じるぐらいなら人工知能に聞けば充分。人工知能にもないもの、その心を優先的に信じることが正しい。
人間の知恵を信じるなら、それはその人間の支配下になるだけ、個人崇拝を行うだけでそれぞれの心の進化とはならない。
知恵ももちろん大事、しかしそれだけではなく、対極としてある心も重要視する。心の天秤の杯に乗せるのが、知恵と心、有と無、それを覚りとしてバランスを保つ。
例えるなら、覚りとは、左右の目のバランスを保つ松果体、右半身、左半身、その左右の真ん中に位置するバランスの基軸、やじろべえと表現する。肉体的進化を乗り越えた先にあるのが心の進化であり、その肉体が無くなる先に行くものは魂、心となる。
その進化が重要だとする意味の語り。