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傍観者はただ見ている。何の話をしているのかではなく、誰が話しているかを、ただ見ているだけ
自分がシオニストカルト系の陰謀論者が気に入らないのは、その同調圧力にある。そのオカルティストの陰謀論を信じた者は、何故か自身の信じる思想主義や個人崇拝した誰かに少しでも否定的な意見を言うと、エコーチェンバーとアポフェニアの持論空論陰謀政治論で知恵のマウントに立ちたがり、こちらを説得しようとして属させようとしてくるから、だからいちいち面倒くさいし、反対する意見に対してごちゃごちゃ言ってくるのが本当にうんざりする。それに従わない、属さないと最後には罵詈雑言、もうため息しか出なくなるんだ。
俺にどれだけ陰謀論や政治論の知恵を披露しても、そんな話の裏など全て解ってるから、はっきり言えば見るだけで「くだらないこと言うなよ俺に」、といちいち思わされる。
何で何も知らずに俺を説得しようとするのか、エホバの証人の勧誘でもされているかのような気分にされる。そのエホバの証人の教義ですら自分から見れば低次元極まりない。
本当にはっきり言う、くだらない。これを言って誰にどう思われてもかまわない、それだけ自分は限界に来てる、もううんざりし過ぎて何もかも消してしまいたくなる。これなんだ、自分がいちいちブログ等を消してきた理由が、何も解ってないのに、全てを解ってる自分に解ってない体で話される、そんなのはもう飽きた。もはや自分にはどうでも良いような内容、陰謀論に政治論の知恵のマウント合戦を仕掛けてこようとする、オママゴトの話、おとぎ話を聞かされる、このおかしな感じが、何と表現したら良いのか、とにかく心底うんざりしてるとしか言えない。
極右思想主義にしようとしてるのだろうか。何で俺がそんなものに従わなきゃいけない。少しでも否定的な意見を言うと、必ずその没頭者達が何かを言ってくる、自分はそんなのに従うような人間じゃないし、いつも承認欲求と同調圧力によって話される内容は哲学でも政治論でもなければ陰謀論にすらなってない思想主義の勧誘。その偏見差別主義の思想主義の勧誘に乗るような人間じゃないと、大声で叫びたくなる。もし現実生活の中でそんな人がいたら、おもいっきり怖い声で「うるせぇこのやろう、そのカルト教義の陰謀論はおまえの脳ミソの中だけで留めとけ」と怒鳴ってしまうかもしれない。それだけ、その陰謀論心酔者の言葉は邪魔くさいし、自分は絶対に従わないんだからいくらそんな陰謀論や政治論を話されても支配下になるつもりはないから彼等は自分に対して絶対的に無意味なことをやってくる。
世の中の人々の心が腐ってくなら、俺は陰謀論を全否定してもいい。自分の承認欲求の話など必要ない、誰も信じる必要はないし、物事をよく解ってるとする人物でいたいとも思わない。知恵のマウントに立ち見下し揶揄するならすればいい、今は本気で思想主義の対立からなる陰謀論ほどくだらないものはないと思ってるし、その憶測や推測、勝手な決めつけ陰謀論が誰かを貶めるための、個人攻撃のネタにされるなら、そんな物事信じるような心など持ってない。
自分が多勢に属し個人攻撃するような腐った心になるぐらいなら、人間をやめる。1000人、数万人の偏見者に攻められても1人で立ち向かう。仲間などいらない、1人で戦う。
人としての善意と正義は失わない、この心は誰にも汚させない、命をかけても守らなければならないもの、それがこの心。偽善と言われようが何と言われようがその他大勢の同調圧力による悪意には絶対に屈しない。
揶揄と冒涜とレッテル、数の暴力によって得る支配など無価値、そんなもの勝利でもなんでもない、敗北でしかない。
世の中の人って、みんな家族や友達、身近にいる誰かを「何も解ってない」、そう互いに認識しあってるが、その積み重ね、連鎖が人々の集団意識をコントロールするもの。何も解ってないわけではなく、お互いにそう思ってる、だからそれぞれの思想主義に没頭し自分の思想と合うエコーチェンバーを探し続け、自分が正しいと再認識するために、「ほら見たことか」が言いたいからそれにすがり続ける。
誰かの知恵を受け入れ、それを絶対として誰かに植えつけようとする。人間同士の関係などたんなる洗脳合戦、無重力のシーソーゲームでしかない。
そこに属さないと、従わないと排除する、そういった意識が我々を不自由にしている元凶でもある。みんなカルト集団なんだ、その思想主義に強引に属させよう、従わせようとする。それが人間であり、ボスを拝む犬やチンパンジーの群と大差なく、その原始的な獣の根性が消えることはない。
もしもその原始的本能が消えたなら、その人は井の中の蛙から抜け出て、孤独に目覚めた人となり、真に覚る事ができた人となる。
怒りや憎しみばかりの言葉をインターネット上にばら蒔いても何も満たされることはない。その怒りや憎しみの原因を探しては陰謀論に没頭して偏見主義に感化され、人を傷つける攻撃的な言葉を使ったり、無駄に争い、それを実際の行動に移してしまう人もいる。
何と戦ってるつもりなのか、陰謀論を信じ、思想主義に没頭する彼等はまず自分の心の中にあるディープステート、闇と対峙しなければならない。その闇に支配された状態でいれば諸刃の剣となり、他者への攻撃をすればするほど自身の心も傷つけ続ける。その心を傷つける行為は自身の愛を自らズタズタにするのと同等の行為であり、それを続ければ続けるほど、その心は闇に落ちてしまう。
陰謀論のレッテルに正義などないし、愛も希望も勇気も情熱もない、そこにあるのは誹謗中傷と冒涜、偏見と差別主義、許しなき悪意ある心のみ。
極右と極左思想にのめり込んでしまった人々は怒りと憎しみに満ちていて、従わない者を徹底して攻撃し、気に入らない人間を個人攻撃の対象にしてこけ下ろし続ける。TwitterX、YouTubeにまで、その酷い思想主義からなる偏見や差別的な誹謗中傷、冒涜に揶揄、人を傷つけ自身の心も傷つける諸刃の刃となる、暴力的な言葉が飛び交っている。
それを咎める事はポリコレではなく、偽善でも支配欲でもない。攻撃する人の心、攻撃される人の心を守りたいとする想いからのもの。なぜ子供や大人のいじめの問題がなくならないのか、物事をよく解ってるつもりの大人なら、それぐらい解るはずなのに、それをみて見ぬふりをして自身の信じた思想主義の承認欲求に溺れ続ける。
その哲学や思想主義、宗教教義やカルト教義、政治論、陰謀論、何々ニズム、その何もかも全てが誰かの考えたこと、誰かの思想主義であり、それに没頭し属すことは誰かの思想主義に属する事でもある。
自分の考え方、心の奥底にある本当の自分の想いを隠し、数の暴力によって支配された感情を抱えながら何者かに従い続ける。それが傍観者の心理であり、犬やチンパンジー、兎や鹿、草食動物の群の中にいるその他大勢の誰かとなる。
インターネット上に陰謀の真実など転がってるわけがない、本当の事など支配する者、支配したがる者達、その当事者達でなければ解るわけがない。まったく関係のない第三者が本当の隠された陰謀の真実など見抜けるわけもないし、その推測や憶測を強引に真実だと思い込んでいるだけ。それが思想主義による無重力のシーソーゲーム、認知バイアス、それを絶対としてしまう人間の心理作用。そのエコーチェンバーがインターネットの普及とTwitter等のSNSの需要拡大によって社会や政治にまで影響を及ぼし始めている。いや、もう既に大きく影響している。
それらの偏見主義、差別意識によって、世界中大勢の人々が苦しんでいる、悲しんでいる、怒り、憤り嘆き、それでも人々はその悪意ある陰謀論プロパガンダ、群衆心理操作、心理的虐待であるガスライティングに没頭する。何を言っても聞く耳もない、みて見ぬふりをし持論をごり押しする。
人々は傍観者となり、魔女狩りのような行いをされていても何も言わず、ただ見るだけ。そうただ見てる、見てる事しかできない。何が怖いのか、そのファシズム化した大衆、群衆からの攻撃が怖い、だから立ち向かえない、対峙する事ができない。それよりもその群衆に属していた方が楽だから、草食動物の群れの中に隠れるように、その群れの中からただ見ている、傍観している。
ただ見てるだけ、何を話しているかではなく、誰が話しているかを、ただ見てる。内容なんかどうでもいい、影響力がある、単純接触効果によってもたらされた感情とミーハー意識が傍観者を生み出し続ける。
自分はそんな傍観者など生み出したくはない、だから影響力などいらない、数字の承認欲求など持っていない。偶然でもいい、たまたまでもいい、自分の書き綴る内容を読んでくれた人は、獣の群れに属するだけの、ただ見てるだけの傍観者とはならず、世界で唯一無二の自分自身として生きてほしい、そう願う、神に祈る。
その心を信じて、愛を信じてほしい。愛を信じることが神を信じることだから。
愛に祈る、愛を祈る、愛を守る、愛を尽くす、愛のために生きて愛のために朽ち行く、それが人間にとっての最高の幸せであり、この世の最大の真理であり、全てにおける神により与えられる本物の自由、正真正銘の最大級の真実と自由となる。
全ての生命、人々の幸福を追求する権利を守るために。自分はたった1人でも偏見者や差別主義者と対峙し、神に祈り続ける。