
愛とは神の心であり、それが全てを思い出さてくれる宇宙の記憶、アカシックレコード
なぜ優しくなれと言うのが、おかしなことになるのかな。どうして許しなき心を持ち続けなきゃいけないのか。
偽善と言われようが素直に人を思いやる心を持って許しある言葉を使うのは簡単なことなのに、なぜそれを行うことに躊躇する。
誰かを憎しみ、怒り、不満を持って愚痴を言い皮肉を言って、誰かを蔑み優越に浸り、レッテルを貼ってはマウントに立ちたがる。足下から頭の先まで見て自身より劣る部分を探してはそこを指摘し優位になろうとする。
これが普通、当たり前とする矛と盾の攻撃をし、その常識と言う魔法を使い、それを防衛として他者を下にして支配し自身の心と体の楽を得ようとする。
身勝手な常識を作っては、誰かがそれに従わないと攻撃してもいいと考え、歪んだ正義を振りかざしては支配し従わせたがる。
勝手なイメージで人を決めつけ、陰謀論のレッテルを貼る。適当な心理学を独自に主張してはその支配欲の正当化をするための教義を他者に押しつけようとするカルト集団。
左右どちらかの勝利など永遠に無いのに、その対立する思想主義の罵りあいに参加して何かと戦っているつもりでいる政治活動家、政治論者、陰謀論者達。
俺は税金の不満など持っていない、政府への憎しみなどない、あるのは許しなき心を持つ極端な思想主義に没頭する左右の主義者への憤りだけ。
お金が無いなら今ある分でやりくりする、足りないなら何とかする、お金が無いとする文句など言わない。お金持ちがどんなに肥えても羨ましいなんて思ったこともなければ、そうなりたいとも思わない。
諦めなどではない、無駄にお金なんか、富なんか持つ必要がないと知ってるから無駄な資産の溜め込みなどしようとは思わない。
天の国へ行くには富も名誉も肩書きもステータスも何も必要とはしない。この魂があればそれだけで充分。
しかし俺は天の国へと入りたいと自ら思うことはなく、それを決めるのは自分ではなく神が決める事だから、この魂の行き先は神の意志に委ねるだけになる。
人生とは常に悔い改めの繰り返し、いくら今日悔い改めても終わる事のない明日の罪を新たに背負っては生き続ける、それが生命の定めであり、神による絶対なる秩序、アナーキーとなる無秩序である自然法。
国、政府、憲法や法律とは人間の定める秩序であり、それは神の定めた秩序ではない。だからアナーキー、無政府でいる事が神による秩序に従うこと。それをアナーキズムにしてしまえば、やはり人間の支配下になる、だから自分は個としてあるアナーキーと言う。
自分は人間の定めた法律に従っているのではなく、神の心、その愛、道徳心と正義によって物事をジャッジして生きている。だから政府が決めたことに従っているのではなく、神による秩序、道徳心と本能に従っている。
税金によって支えられる人々がいるなら、素直に受け入れ、犯罪とする物事は警察が怖くて行わないのではなく、人の目を気にして行わないのではなく、神の意志に従って行わないだけであり、政府が無くても、法律が無くてもこの心は神の秩序に従う。だから不道徳なる行いをすることはない。
警察も何もなく、無政府で無法地帯だとしても、自分は悪意ある盗みなど行わないし、強姦のような身勝手な行いもしない。己の欲望は自分の覚りと愛で制御する。
人はいつ何どきでも悔い改められる。今日悔い改めても明日新たなる罪を背負うのが定めであり、神は悔い改めた者を赦さないとする秩序を押しつけたりなんかしない。
一度悔い改めればそれで終わりではなく、我々生命は日々常に悔い改める。
それを解ってる多くの人がいても、道に迷いし哀れな小羊が1人悔い改める事の大切さに気がつけた時、天にはこの上ない大きな喜びがある。神や、その天よりの使い、宇宙の守護者達は強くそれを望んでいる。
悔い改めるとは賢くなる事でもあり、愛を成長させることでもある。小さな微生物から大きな人間になった我々は更なる進化のために、またよりいっそう大きなものへと変化し、進化する必要がある。
小さな音はゆっくりと広がりながら大きな波動となり、やがて無となり最小となり、新たなるメロディーを奏で始める。天の国へ入れる狭い門を潜り抜けた時、この魂は更なる大きな世界へと進み行く。
悔い改めとは罰ではなく、模範でもない。それは成長することでもあり幸福となるための光の道を思い出すこと。
それは人間の秩序の中にある普通や当たり前、常識に従うとする事ではなく、本能としてある愛と正義と勇気と希望、道徳心を大切にすると言う意味になる。
人間が作った動きをするデジタルのサイコロに従うのではなく、自然の法則によって転がるアナログのサイコロを信じる、神によるアナーキー、この世の絶対なる秩序を信じる、それが真の信仰心。
誰かが言っていたから、誰かが見てるから、誰かがそう命令してるから、誰かが賛同してるから、誰かがそれを普通や当たり前、常識と言っているからで従うわけじゃない、自分の心がそうしたいと思うからそれを行う。
人間の目を気にして何かをするのではなく、神が見てるからとする心理に動かされるわけでもなく、自らが思い出し行動する、それが本能であり既に知っている事を思い出すことでもある。
それを思い出すために、神の心である愛、その宇宙の記憶、アカシックレコードに答えを求めよと自分は言っている。
俺は誰にどう思われてもいい、偉そうと思われようが変人と思われようがかまわない。必要なことを話すだけ。
それを知った人が、その後どう生きるか、どんな心を持って人生を全うするかもその人の自由意思であり、自分が支配しコントロールするわけじゃない。
最も大切なのが、自身の愛に答えを聞くこと。自分のnoteではなく、誰かの思想主義の書かれた哲学の書物でもなく、インターネット上にある政治論や陰謀論が書かれた個人ブログやYouTubeの政治的極論、都市伝説動画、Xや他SNSで見る誰かの怒りや憎しみの言葉と情報に答えを求めるのではなく、自分自身の愛に答えを聞くこと、その神の心が本当の事を教えてくれる、必ず。
人間は嘘をつく、騙し欺く、プロパガンダ、心理操作を使いマインドコントロールをし洗脳するが、神は、愛は絶対に嘘をつかない。
だから全てを知りたければ神に聞けばいい、その愛に答えを求めれば間違いのない真実の答えを必ず教えてくれる、必ず。