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陰謀論者、スピリチュアリスト、ニューエイジ思想主義者は人の言葉を聞けない、悟れもしない頑固な未熟者ばかり

自分はニューエイジスピリチュアリストや、何かを詳しく知ってるつもりになってる陰謀論者の意識のレベルが低いように感じてる。

そういった思想を持ってる者は、簡単には人をブロックなどしないはずだが、心が未熟なので反する事を少しでも言われたら我慢ができないらしい。意識を高めるにはどんな人の言葉でも参考とするもの、少なくとも自分はそうしてるし、Twitter上で何をズバッと言われようが決してブロックなどしない。ブロックをすると言う事は自分が今まで考えなかった事に対して目を背ける行為であり、もうその時点で悟りの感覚など失った状態にある。

見たくないものを見ない、聞きたくないことを聞かない、何か自分を特別な何者かと思い込んでるようでは新しい学びなどはない。

 
似非スピリチュアル、適当なニューエイジ思想など誰でも語れる。無いことをあるように語るなら適当な言葉の羅列を並べたらいい、それだけで人を不思議の国へと導く事ができる、兎の穴に引きずり込める。


それだけ物事を解ってると自認してるらしき人物が偏見主義の陰謀論になど没頭しのめり込み許しなき心で他者にレッテルを貼るような行為などするわけがない。心が未熟だから承認欲求を欲するし、数字のステータスを欲しがる。影響力と人気、そして承認欲求を欲しがればその時点で未熟な心は露呈されているようなもの、そのような者が人智を超越したニューエイジスピリチュアルの賢人になどなれるわけがない。

その者自身がNPCであり心を操られてるだけの洗脳された操り人形に他ならない。自分は何度も言ってきたがニューエイジ思想とはグノーシス主義からの流れを持つもの、その流れを持つ主義は反キリスト思想であり神を信じない無神論のヒューマニスト思想。

神を信じない心に奇跡も無ければ悟りの心すら降りては来ない。そういった者達が話す内容の殆んどは自らが思い出した事ではなく、他者から借りた浅知恵だけ。だから偉人や哲学者の言葉を借りて持ってきて自身の言葉に対する箔を付ける目的で利用する。しまいには映画やドラマ、漫画の1場面を引用したりもするが、それはその物語の作者が考えた言葉であり自身が考えた事ではない。


本当に感覚的なものを大切にするなら他者からのものを拝借するのではなく、己が0から自から導き出した答えを披露できるはずだが、それはやらない。必ず自分よりも上とする何者かの見解を基礎として物事を語る。

それを行うなら、結局は何者かの支配下となり誰かの真似事をしてるだけ。だから、何の話をしているかではなく、誰が話しているかに引き寄せられ感化される。単純に言えばミーハーな意識と言える。

適当な言葉の羅列なら誰でも話せる、どんな表現でもできる。

例えば…

「この世界とは別次元にある意識に集中すれば本来の自分の姿が見えてくる。その未知なる空間を抜けた先にあるもう1つの意識と心を融合させたなら異次元から見せられるマトリックス世界の真相が見えてくる。

銀河の彼方にある永遠なる螺旋を越えたパビリオンの幻影に耳を澄まし、右脳から流れるリズムを胃袋の栄養として穴から吐き出せばエネルギーの放出を無意識に行う乱気流が全身を包み込む。宇宙意識と一体となり波動の素粒子を真常なる状態へと変化させピラミッドパワーの頂点へと集中させるエネルギーの超波動を脳天から宇宙へと突き上げる。

伝動的エナジーパワーは放出された意識と一体となり現実とバーチャル空域の狭間でアセンションする。体内にある禅の力を陰陽道の道筋に流して華麗なる功の源を水面下で平衡する。易の水域からバーチャルの空域までの流れを独自のホワイトメンタルでパワーバランスをクラッシュさせる。

ブラックスパークの広がりが自身の神経に伝達したなら理学における連鎖を自然発生させ神経細胞が活性化する。新しい人類は3番目の領域へと足を踏み入れ、未知なるスカイラインの道を時空間に連想する。脳内覚醒が起こる時、人は恐れと恍惚感、悲痛と幸福のサブリミナルを経験する。

命のギリギリの場所の先端から飛び降りるような感覚を得た時に人は真を問うことになる。引くか進むか選択肢は1つ、迷うことなき選択肢は意識レベルの向上と共に走馬灯が脳内を駆け巡る。覚醒した脳が暴走した肉体に遺伝子の活性化を促し細胞分裂を繰り返した後に波動として光粒子の波紋を広げる。エナジーアーチは体の神経細胞がどうのこうのあーだこーだどったらこったら、ピーチクパーチク、ペチャクチャペチャクチャ…」



こんな風に、適当な言葉の羅列なら誰でも話せるもの。それらしい画像を多用し、こんな程度の適当な言葉ぐらい、いくらでも綴れるし、10000文字綴れと言われるならいくらでも書ける。しかしその言葉はまったく意味がないたんなる言葉の羅列、真もなければ道理もない、適当にそれらしく見せているだけの滅茶苦茶な音の連続に過ぎない。

こんなものがスピリチュアルなわけがないし、ニューエイジ思想などヒンドゥー教にも仏教徒にも遥かに劣るおままごと、語るのはおとぎ話と言っていい。

羞恥心を持つとするなら、これに羞恥心を持った方がいい。自分から言わせたら、神を信じない心で未知なる意識を語るなど滑稽甚だしい、仏教ですら自らの魂の成長を目指す仏の概念以外に、別に神はあるとする認識を持つ。神を考えないだけで、神を否定しているわけではないし、自らが神になろうとしているわけでもない。仏教において重要なのは苦しみとなる羞恥心を捨て自由になること、しかしニューエイジ思想主義者のヒューマニストは苦しみを他者のせいにして自ら自由になろうとする、悟りも無ければ信仰心もない、たんなる自惚れと自身が特別だと思い込む承認欲求で神智学を語り続ける。

自然崇拝の基本は神にある、自分の力のみで森羅万象の全てを理解しようなど愚か過ぎるし心が未熟、まったく悟りにすら近づけたりもしていない、何も解らない赤子同然。そのような赤子にすがり泣き叫んでも魂の成長など無いし、神に反する心を育てるならいずれその心は腐敗した魂を宿す錆びれた天秤になるだけ。不快な音を出すバランスの悪い天秤のジャッジなどには正解などない。あるのは不正解だけ、未熟者の心では自分が話している意味も理解できないし、理解しようとする心すら持っていないと思う。

どんな神秘的な物事も、奇跡も全ては神を前提としていなくてはならない。信仰心なきものに真を見極めることはできない。

だから陰謀論ごときの騙しに簡単に引っ掛かり、その足に繋がれた鎖を引きちぎる事すらできずに口だけで適当な言葉の羅列を吐き出すだけで精一杯。許しなき心の者に賢人、賢者など存在しない。承認欲求が激しい者に悟りなど得られない。

自分は厳しい事を言うが、これを見ない、聞く気もないものが悟り、覚る日など永遠に来ることはない。神による奇跡は絶対に起こらない、人間の支配下としてある数字、666のまま生涯を終える事になる。その行き着く先は、魂が幽閉される監獄だけ。


たとえスピリチュアルやニューエイジに没頭する者がこれを読んだとしても、自分が何を話しているのかすら理解はできない、いや理解をしようとは思わないと思う。ものは使いよう、どんな知恵でも思想でも、思考でも使い方によっては他者を苦しめる凶器となる。


その知恵と思考を有効に活用したいとするなら、神を信じること。愛とは神の心であり、それは許し、正義、勇気、優しさ、思いやり、そういった想いが詰まるとても尊い心、それなくして真理を悟ることは絶対に不可能だし、神を信じないなら蛇に呑まれて終わり、その心こそ悪魔崇拝の心となる。


自分など、どう思われてもかまわないし、馬鹿にされても見下されても揶揄されてもまったく問題ない。承認欲求で話しているわけではなく、預言者、エクソシストの役割として悪魔の心を祓うための話をしているだけ。

最初から人にどう思われるかで、ブログやnote記事など書いてもいないし、記事を売ろうなんて今後も一切考えないし、数字のステータスを得てお金儲けなどしようとは思わない、それが無償の愛。




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