![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/146778503/rectangle_large_type_2_d5b0716c68d80faf02c188b3be87b725.jpeg?width=1200)
真実の愛は三位一体の聖杯であり、それこそが神そのもの
もしも、神が自分は間違っていると言うのなら、逆らわずにそれに従おう。神がこの魂を地獄へ送ると言うのなら、それを受け入れる。自分の生き方、考え方が間違いならそれでいい、それでも人を愛した、心から愛した、精一杯の言葉を尽くした。
神を愛した、キリストを愛した、精霊、天使を愛した。愛と許しと優しさと、正義と希望、勇気、そういった義を大切にして生きてきた。自分ではそのつもりでも、間違った物の考え方をしていたなら、自分は未熟。
なぜ自分が、自らで陰謀論を語りながらもインターネット上で広まっている陰謀論を否定するのかと言うと、それは愛がないからで、優しさがない、許しもない、だからそういった話には賛同できないし信じることができない。その多くの陰謀論の影には必ず排他される人達がいる。自分はそんなのに賛同はできない。
ワクチンや予防接種の類いは子供の頃から一度も受けた事がない。コロナワクチンはもちろん、市販の風邪薬すら殆ど飲んだ事がない。人生で風邪薬を飲んだのは数えるくらいしかないと思う。今まで生きてきて自分の病気で病院に行ったのは人生で2回だけ。
それでも、自分は陰謀論者を信じ、それを否定する人達を信じないなんて事はできない。移民嫌悪する人達の影では悲しみ苦しむ人達が間違いなくいる。LGBT嫌悪される世論に悲しみ苦しむ人がいる。
そして、コロナ煽り、ワクチン強要の裏では、ワクチン副作用被害に合い悲しみ、苦しむ人達もいる。
キリストは、とても心が苦しくなる判断をさせる。まるで試練のような、たえられらない孤独を強いるような、そんな言葉を残しているようで、自分はその言葉をしっかりと守ることはできないかもしれない、でもそうでいたい、そんな自分として生きていたい。
![](https://assets.st-note.com/img/1720549824460-Ddu9DCvNrY.png?width=1200)
自分は愚か者だから、物事をしっかり見極められない。やはり善悪の認知バイアスに陥ってしまう。情けない、こんな未熟者が、十戒を守るなど、できるわけがない。
自分には承認欲求などない、何かを語るのは今語るべきだと思ってるから。誰かの賛同もいらないし、認めてもらいたいわけじゃない。誰も自分の話を聞かないなら聞かないでいい、それなら自分が間違った考え方を持つ人間で、未熟だから誰も聞かないだけの話。
だから、神がこの魂を地獄に送ると判断したのならば、逆らわずに受け入れる。神は間違った判断などしない、間違ってるのは自分だから。
左右に属することが正解となるなら、自分は神に逆らっている事になる。誰かを憎しみ、怒りを持ち、何かの思想主義に属する事が正しいと言うのなら、自分は神に逆らっていることになる。
シンプルな優しさ、愛、許しを持つことが賢くないと言うのなら、自分は賢くなくていい、それでいい。
確かに、世の中過剰な偏りばかりで、何が正しいのか解らなくなる。自分の知らない、気がつかない欺きや嘘が多くあるのかもしれない。
フェミニスト、ポリティカルコネクトネス、LGBT嫌悪、移民嫌悪、そういったものにも理由があるのかもしれない。それでも自分は擁護したい、そういった人達だって自分達の信じた何かのために生きていたり、意図せずにそうなってしまった人達もいる。それなのに責められるのはかわいそうだ、だからその人達の心は守りたい。
ニューエイジ思想はグノーシス主義からのものであり、フェミニスト、男女平等やポリコレなどもニューエイジが関係している。
魂を重要として肉体を否定、もしくは悪とする、そのニューエイジ思想主義者が男女の概念を超越させたがっている、性別を無くしたがっている。映画マトリックスによってニューエイジ思想が世界中で流行し、スピリチュアルと陰謀論を交えた神秘主義者が生命の性別を超越させたがっている。
しかし人間の性別においては、男は女を愛するもの、女は男に愛されるから、男を愛することができ、男は女に愛されるから女を愛することができる。それが三位一体の自然の法則、愛が溢れる聖杯による循環作用。
![](https://assets.st-note.com/img/1720551244224-gNlrr0Tmg0.png?width=1200)
たとえLGBTでも、心の性別を女とするなら、それは女性であり、心の性別を男とするなら、それは男性であると言うこと。だから男女どちらかを選ぶなら、自分を男とするなら身も心も男として生き、女として生きるなら身も心も女として生きる、これが自然の摂理であり絶対なる神による自由なる秩序。
自然発生的な心の性別は自然の中にある普遍的なる自由であり、一方思想主義から来る性別の超越、ニューエイジ思想は自然法に反するもの。
いくらフェミニズムやポリティカルコネクトネスを主張しても男は男であり女は女である事実は変わらない。そのどちらでもないと言うのなら、特定の誰かを強く愛した場合、その人の性別によって自身が男なのか女なのかを判断したらいい。性別が男でも女でも特定の相手が現れずに、生涯独り身のまま人生を終える人は大勢いる。
本物の恋と愛は、ただ側にいるだけで幸せなもの。ただ見ているだけで幸福でいられる、共にいる喜び、ワクワクとドキドキ、何とも言えない特別な感情と感覚。
その人の髪型から服装、雰囲気から話し方、性格から言葉使いまで、何もかもが愛しくなるもの。他にはいない、二度と現れない、そう思えるほどに特別な存在。
毎日毎日四六時中その人のことばかり、絶え間ない心の振動が苦しみと悲しみとなり勝手に憤り、勝手に嫉妬し、勝手に悔しがり、勝手に悲しくなる。それは無理矢理ではなく、自然にそうなってしまう、そうなろうとしてなるわけではなく、突然にそうなってしまう。逆らおうとしても逆らえない、勝手に心が暴走してしまう、止められない激しい想いが情熱に変わってしまう。
想像すると、それほどまでに想う誰かと共にいられる時は、とれほどの幸福だろうか。この一瞬がいつまでも続いてほしいと願う、その生活の中にある何てこともない日常が愛しくてたまらなくなる。
着ている服から何から何まで、目を閉じていつまでも考えていたいほど、愛しくなる。
だから、人間の本当の恋と愛は、神が与えてくれた喜び、幸せ、男女の幸福。それこそが、全ての人々が求める人生最後の楽園。
アダムとイヴがいれば、どんな世界も楽園となる。
真実の愛は三位一体の聖杯であり、それこそが神そのもの。