ゆるい緊急事態宣言と「サルトルの自由」
緊急事態宣言が延長されることが決まりました。
まあ、多分みんな「そうだろうな~」と思ってそうですが。
この、外国に比べてゆるい緊急事態宣言と、
ここ数ヶ月の流れを見ていて、
唐突ですが、15歳頃に授業で出た
「サルトルの自由」について思い出しました。
前後に諸々流れはありますが、
授業での話をザクっと抜粋すると、以下のような内容。
「自由であることは責任を伴う」
↓
自身の自由意志で選択し、行動する時、
それは周囲や社会に、なにがしか影響するものであり、
巡り巡って自分に返ってくる可能性を考えること。
(…人間は自由という刑に処せられている…云々続く)
自由意志で選択した言動が、周囲や社会にどう影響するか。
そこに思い至る「想像力」。
もし、強制ではない多くの自由意志の行動で、
コロナ禍の現状が打開されたら、
欧米の流れと真逆な成功例として誇れるし、
日本の民度の高さってことになる。
しかし、自粛要請のさなかで、
表に出てくる話題は「想像力」のない人のケースばかり、
実際のところはどうなんでしょう。
5月4日現在、
爆発的増加もないけど、終息にも向かっていない、
まだまだ展開は不透明。
このどっちつかずのモヤっとする感じ、
これもある意味、日本的ではあるのですが。
*
ちなみに、15歳当時の私は、
この「サルトルの自由」をナゾにポジティブ解釈し、
「責任を負う覚悟さえすれば(行動選択)自由でいいんだ」と、
勢い込んで納得したのでした。
この納得感がどこから来たのか、今さら分析してみると。
↓
我が両親は、私が何かの選択をする際、
強制や服従圧力はもちろんのこと、
心配や気遣いを装った誘導やコントロールなどを、
発したことがありませんでした。
むしろ、ニュートラルに委ねている感があったので、
子供なりに、責任感を出して自分の気持ちや状況を分析や判断し、
自身で選択を決定していたと思います。
その決定が最良だったかは分からないし、
任されたことで逆に、家族や社会(世間?)に対し配慮する、
という場合もありました。
そういう点も含めて頭を使い気を遣う、ということを、
結果的には学習したのかも。
自分的に、そのことは悪くなかったと思います。
「サルトルの自由(の薄っぺらい私的解釈)」によって、
私の「選択する際の心理や行動体験」が肯定された~という、
当時の納得感だったのかなと。
些細なことでも、肯定されたと感じられること。
案外大きいですよね。