「こっちを向いて」の罠
なんでここにいるんだろう。
なんで一緒にいるんだろう。
中身があるのかなあ。
そんなことをふと、しばしば思う。
時間が経つのと比例して密度が増す
なんて風に簡単なものではなくて
時間が経つだけで、空虚なものだってあるのかもしれない
と過ぎた2年間をふと思い返す。
2017年の夏、一緒に暮らし始めた頃、
リビングの壁の一部をデコレーションして、思い出の写真とか記念チケットを貼るコーナーを作った。いつもご飯を食べる机の近くで、振り返れたら素敵だなあと思ったから。実際に順調に増えて、
たくさん増えて、いろんな場所に行ったんだなあと思う。
でもいつしか増えなくなった。
というと語弊があって、
頑張って、増やそうとしている自分がなんだか滑稽で虚しく思えるようになった。
2017年の冬、喧嘩した後に貰った手紙
「たくさん一緒に色んな場所に行こう」
「たくさん一緒にご飯を食べよう」
「死ぬまで一緒にいたい」
私はこの手紙に書かれている内容を今だって鮮明に覚えていて、もう時効だなあ、こんなこともう思ってもないだろうなあ、忘れてるだろうなあ、なんて思いながらも、落ち込んだ時は、なんとなく思い返しては「大丈夫」と精神安定剤のようになっていた。
でも今年喧嘩した時、
この手紙がぐしゃぐしゃになっているのを見て、本当に時効になっちゃったとわかった。
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小学生の頃、
母が遅く帰ってきては「友達」と称して男の人を家に連れてくるのが本当に嫌だった。
母子家庭で、養育費も支給がなく母一つに掛かっていたからこそ、
お母さんの責任と負担は図りし得なかったものと思う。
けど当時の私は(小学生だし)
どうしても「寂しい」の気持ちが強くなってしまった。
「晩御飯準備しているからいいでしょう」
と言って出て行った母に「帰ってきて」と執拗に電話したことがあった。
早く帰ってきてほしい。
母が遅く帰ってきては「友達」と称して男の人を家に連れてくるのが本当に嫌で
その人に挨拶もせずに露骨に態度を悪くした私を見て
「ちゃんと挨拶くらいしなさいよ!」
と怒鳴った母が憎く見えた。
「どうしてお母さんの邪魔ばかりするの」とお母さんが泣いて私を拒絶したことがあった。
この時の無力感と喪失感。
「こっちを向いて」と表現すれば憚られてしまう。
でも、向いてほしい。ここにいること。知ってほしい。
その思いを強く持てば持つほど、拒絶されて、絶望されてしまう。
自傷行為みたいだった。
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仕事が終わってやっとの思いで帰宅して
部屋に行くとゲームに夢中の彼がいて
冗談めかしに「ねえ、私とも遊ぼーー!」とチャチャを入れたら、
案の定、「終わったらね」と集中している様で、
そこにまた「じゃいつ終わるのーーーー」と彼の肩を揺すって騒いだら
「きなこが今していることは全部俺の邪魔なんだよ」と怒鳴られてしまった。
この時、
ああなんか、この感じ、覚えてる。と思った。
この時のやるせない感じ、「こっちを向いて」と思えば思うほど、相手に絶望され、自分に絶望するこの感じ、初めてじゃない。
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不器用すぎて、全然成長していない。
あの小学生の頃から、私の求め方は変わってないのかもしれない。