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ソクラテスは書かない?プラトンからChatGPTまでの書字の重み

古代ギリシアの哲学者、ソクラテス。世界で最も優れた思想家で斬新な思考の創始者の一人。このソクラテスが、なんと、書字という行為に否定的だったという。
そうなの…?!
確かに、ソクラテス自身はなにも書き残しておらず、その言葉をプラトンが記録したおかげで、ソクラテスと弟子の対話をわれわれが読むことができる、とは聞いたことがある。

書籍『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか』を読んだ。
〈読書〉という行為は、ヒトが生まれながらにして簡単にできることではなく、別のことに使うための脳神経をなんとかうまいこと繋げてやり遂げている、わりと大変なことなのだった!!知らなかった。
ディスレクシアについても書かれており、ふだんあまり苦もなくやっている、書字や読字という行為について掘り下げて知ることができる良書。

人類最初の文字(のようなもの)の発明から、さまざまな言語の発達とそれを読む脳の発達、その相互作用はとても興味深い。そのなかでもソクラテスが活躍した紀元前5世紀から4世紀は、口承文化から文字文化への移行期であり、そこで「書字言語」に反対したソクラテスの言い分を、ぜひ聞いてみたい。現在、われわれも書字文化からデジタルで視覚的な文化への移行期にいるから。そして、書字については、もはや人類じゃないChatGPTも活躍しているから。

本書に書かれている、ソクラテスが書字文化に反対した理由は、以下の三つ。

1、書き言葉は柔軟性に欠ける
 ソクラテスにとって、対話によって真理を明らかにしていくことこそが哲学であったので、書かれた「死んだ言葉」には反論することができず柔軟性に欠けると考えた。
 また、書かれた文章は「あたかも知的であるように」見える。人々が文章を読むだけで、あたかもそれを理解したかのように誤解し、空虚な傲慢さにつながるのではないかと危惧した。

2、記憶を破壊する
 個人的知識の基盤となる「文化的記憶」は、暗記という非常な努力を要するプロセスによってのみ得ることができると考えた。口承された教材を暗記し、吟味することでより磨かれた知識を身につけることができる。
書字に頼る人は自分の頭で考えることができない!!と、こっそりカンニングペーパーを作っていた弟子をガン詰めして罵倒していたらしい。

3、知識を使いこなす能力を失わせる
 書かれた文章は、読むのにふさわしい人を選ぶことができない。前提となる知識(リテラシー)がなくても読むことができてしまう、つまり、誤用や悪用を防ぐことができない。
また、書かれた文章から過剰に知識を得たとしても、表面的な理解しかできず、知識を使いこなす能力を取り返しのつかない形で失ってしまう。

いちいち頷いてしまう内容。ただ、書記言語を擁護するなら、じつは、「書記のプロセスは、対話を一人の人間の内面において再現できるものと言える」ということ。
自分の考えを明確に表現しようと苦労したことがある者はみな、書くという純粋な努力によって自分の考えが形を変えていくことを、経験から知っている、と著者は言う。ソクラテスの時代にはまだ書字文化が未熟だったため、この効能に気付けなかっただろうということだ。

書記言語に過剰とも思える反発をしたソクラテス。それにちょっと引きながらも、自身は文章を書き残すことを選んだプラトン。(ちなみにそのまた弟子のアリストテレスは、もう読書中毒だったらしい。)
じゃあ、コンピュータが自ら文章を書き始めてももはや慌てふためいたりしない現代のわたしたちにとって、書字文化ってなんなんだろう??

少なくとも昭和の終わりごろまでは、自分の書いたものが活字になる、というのはあまりないことだった。文筆家でもない素人の文章は、新聞や雑誌に投稿して採用されでもしなければ、公に見られることはなかった。新聞や本に書いてあることには重みがあり、「本に書いてあった」といえば真実らしく思われた。
それがいまや、老若男女、素人だろうが玄人だろうが、万人が文章を書き、誰のチェックもなく発信できる。

ChatGPTが文章を書くことが抵抗なく受け入れられているのは、書字という行為の権威が落ちているからではないか。そして、世の中に溢れている玉石混交の文章の数々。誰かが書いた真偽不明のテキストが多少増えたところで、どうってことはないのだろうか。これは、果たして良いことなのだろうか…。





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