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人生の折り返し地点を過ぎて(後編)
こんな、何者にもなれず、最初から最後までわけのわからない、そして、取り返しのつかない人生。
どうやって生きていけばいいのか?
たとえば、ゲーテのこんなことばはいかがでしょう?
自分の天職だと感じながらも諦めなければならなかったことが、他の人によって成就されるのを見ると、人類はみんなでひとりであり、ひとりはみんなの中に自分を感じるときだけ喜びと幸せを味わえる、という美しい感情がわいてくる。
おおーー。
お偉いゲーテさんみたいな成功者だから言えるセリフやんけ。と思わないでもないけれど。
全部を自分がやる必要はない。
そう思えれば、ずいぶん楽になる気がする。
ゲーテがお嫌いなら、こちらはどうでしょう?
人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。
人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。
そう、自分は目の前に石をひとつ積めばいい。
例えば、遠方にいる自分の親や祖父母に、頻繁に会いにいったり直接介護をしたりできなくても、
自分の周りにいる人たちに優しくしたり、仕事でも親身に接することが、回り回って彼らにつながる、のではないかしら。
わけのわからない人生だけど、たぶん、物心ついてすぐに、人から「こうだよ」「こう考えたらいいよ」って言われても、納得いかないと思う。
やっぱり自分でいろいろ無駄な経験をして、失敗して、挙げ句、「こうなのかもしれない」と思うことに価値があるし、そもそも一周回らないとわからないんだと思う。
そして、わかったと思っても、またわからなくなって、グダグダするのが人生なんだ、と思う。
ということで、最後に、わたしの私淑するセネカ師匠のことが大好きらしい、モンテーニュせんせいの言葉を。
わたしは、人は行動して、人生のつとめをできるだけ引きのばせばいいのにと思う。また、死ぬことや、ましてや、自分の未完成の菜園のことなどは気にかけずに、ひたすらキャベツを植えているところに、死が訪れればいいと思う。
そう、菜園は完成などしない…かな?
(菜園っていうのは比喩[後註☆]、ということでよろしい?)
では、今日も明日もせっせとキャベツを植えましょうね。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
☆蛇足の解説
菜園=エピクロス学派のこと。
エピクロスが20ムナーでアテナイに買い求め、友人らと過ごし、後継者ヘルマルコスに譲り渡した場所が「菜園」と呼ばれたことを踏まえる。
(ルキウス・アンナエウス・セネカ『倫理書簡集5』訳注より)
セネカ自身はストア派だが、派の異なるエピクロスのことばも積極的に引用している。
※画像 テオドール・キッテルセン
Gutt på hvit hest (Boy on white horse)
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