短編小説「明けまして、ボケました」
「おかーさーん!電話よーっ!新田さんって人から!」
と、呼ばれた懐子は、丁度鼻眼鏡で居眠りをしていたところだった。隣には、コーヒーと読みかけの本。んん?とずり落ちた眼鏡を戻すと、目の前に娘の雛子が仁王立ちで立っていた。
「いい加減、スマホの使い方覚えりゃ良いのに!いちいち家電繋ぐの、面倒なのよ!?」
雛子が、眉根を釣り上げても、懐子はどこ吹く風で、サッと家電を取り上げた。
「もしもし?」
隣で雛子が、耳をそばだてる。
「はい。えっ?、、、そうだったかしら?あらあら、、、」
電話口で戸惑う夏子を見て、またか、、、と、言う顔をした雛子が、
「代わって!!」
と、電話を受け取った。
「はい?いいえ!!結構です!!」
そして、ガチャッと電話を切ってしまった。
「おかーさん!!また、騙されて!!私が居なかったら、一体どうなってたの!?」
「あれあれ、、、?おかしいねえ、、、」
懐子は、笑いながら2階へと消えて行った。あとに残された雛子は、「もう!」と、やり場のない怒りを飼い猫のブタネコ、松にぶつけた。睨まれた松は、びくうっと尻尾を逆立てて、逃げて行った。
その晩、懐子は夢を見た。初恋の人が出てくる夢だった。実は、結婚してからも懐子は、その人のことを夫に幻滅するその都度思い出すほど、激烈に愛していた。その人は駆け足で懐子の前を走り出すと、おいでおいでと手で示した。
「待って、待ってよお〜!あなた、学生なんだから、おばあちゃんの私が追いつけるわけないじゃない!」
それでも、なお初恋の君は、早足で走り去ると、遠くでおいでと指し示した。
「、、、おかーさーん〜!!」
遠くで、雛子の声がこだました。あの子ったら、ここまで私を追っかけて来たんだわ!!すると、初恋の君の足が止まった。なにやら、箱を差し出している。
「え?なに、これ?」
初恋の君は、満面の笑みで微笑むと、
「あ、け、て」
と、言った。
「え!?開けるの?これを?、、、良いわよ?でも、なんで?」
「いいから、プレゼントだよ、、、!」
初恋の君の、輝かんばかりの微笑に、懐子はすっかり心奪われ、
「じゃあ、行くわよ〜!エイッ!!」
箱は開けられ、あたりは光の渦に包まれていた。。。
「、、、認知症ですね」
眠そうな懐子に席を外させ、医師の前に座った雛子は、そう告げられて口をあんぐりさせた。しばしの時が流れ、ため息を付いた雛子は、
「やっぱり。。。」
と、ガックリ首をうなだれた。
それからが雛子の戦いの始まりだった。正確に言えば、懐子の闘病ではあったのだが、そのほとんどの始末と責任が、雛子の肩一つにかかっており、雛子は孤軍奮闘することになった。母の呆けは、想像以上に進んでおり、日々、パニックになりそうだった。
ある時は、銀行から電話がかかってきて、
「お宅のおばあちゃん、大金を下ろそうとしてるみたいでね、大丈夫なんですか?」
と言われ、慌てて駆けつけると、懐子がATMの前で数十万円下ろそうとしていたところで、雛子は平謝りして連れ帰ったり、またある時は、懐子が徘徊してしまい、幾ら探しても居なくなり、絶望して信号を見たら、懐子が赤の所を渡ろうとしていて、雛子は血相を変えて懐子を引っ張って戻し、連れ帰ったりと、その戦いは、果てしなく続いていた。
懐子の夫、次春は一昨年亡くなっており、一人娘の雛子が、認知症の懐子を面倒を看る他に方法がなかった。雛子は、常にため息をつくようになっていた。松が隣でニャ~と伸びをしたが、それをキッと睨んだ雛子は、
「あんたは良いわね!?食う寝る遊ぶ、で!!」
と、ちょっと古臭いキャッチコピーを言ってしまい、少し後悔した。松は、また尻尾を逆立てると、ギャン!と言って、行ってしまった。全く、食う寝る遊ぶ、はお母さんのほうだわ!!そう考えて、雛子はまた、フーッと静かにため息をついた。
雛子は、未だ独身で、市役所に勤務していたのだが、母が本格的に認知症になった数ヶ月前から、介護離職してしまっていた。同僚は、雛子に多少の理解を示してくれはしたが、去るものは追わない主義らしく、長い間勤めた間柄にも関わらず、送別会も行われず、雛子はスッと社会から放逐された。
しらけ世代の雛子は、内心とても自分を哀れに思ってはいたが、それはおくびにも出さず、毎日懐子の世話に興じた。それは面白ろうてやがて哀しき狸かな、の世界であり、最初は生き生きと介護していた雛子も、流石に枕を涙に濡らす晩が多くなっていた。そんな事には、少しも構わない懐子は、今日も好き勝手に徘徊し、不穏になり、ぐうぐうと眠り、誰よりも先に早起きしては、私の財布はどこへ行った!?と雛子に妄想の種をぶつけるのである。次第に、雛子は我慢ならなくなって、懐子を怒鳴りつけては、自責の念に襲われて、後悔の涙を流すのであった。
「おかーさん!!、、、おかーさんってば!!」
大声で懐子に呼びかけるも、懐子はボーッとあらぬ方を見つめているだけである。松を抱きしめた雛子は、思わず、ウッと涙が込み上げていた。貯金を切り崩して、介護する日々。最近、あまり寝ていなく、懐子の世話にてんてこ舞いだったので、情緒が少し不安定になっていた。
「おかーさん、、、?、、、のバカーッ!!」
そう叫んだ雛子は、松を放り投げて、サンダルのまま駆け出していた。玄関をすり抜けると、外はもうすぐ暗くなろうとしていたが、気にもとめずに、走り抜けた。うち捨てられた松が、フギャン!と悲鳴を上げて、逃げて行った。
季節はもうクリスマスだった。街のイルミネーションが眩しい。くたくたに疲れた雛子が、ヨロヨロと商店街に辿り着くと、そこはクリスマスセールの真っ只中だった。もう、家を出てから何時間経っただろう?放置された懐子は、一体どうしているのか?そう考えると、雛子がゾッと背筋が寒くなったのは、寒さだけではなさそうだ。
歳末感謝祭が行われており、少しの買い物をした雛子にも、くじ引きのチャンスがやって来た。ガラガラをカラン、と回すとなんと!金の玉が出たではないか!!
「おおーあーたり〜!!」
カランカラン!と鐘の音が響き渡る。え?え?と戸惑う雛子に、うさぎのキグルミがやって来て、どうぞ、と三等のプレゼントの箱を渡した。どうやら、食用油の詰め合わせらしい。が、
「ダメーッ!!」
、、、振り向くと、そこには、懐子が立っているではないか!
驚いた雛子は、
「おかーさん?」
と、素っ頓狂な声を上げた。
「だめよ、だめだめ。開けちゃあ、だめ」
「?何言ってるの。、、、って、おかーさん、ここまでどうやって来たの?」
思わず聞き返すと、
「なんだかね、あんたがここに居るんじゃないかと思ってね。昔から、クリスマスセールが好きだったから」
と、にっこり笑っているではないか。
思わず、ジワっと目を潤ませながら、
「、、、おかーさん!ゴメンね!!ゴメンね!!あたしが投げ出したら、おかーさん、どうなるかわからないのにね、、、。ゴメンね~!!」
そう叫んだ雛子は、懐子をギュウと抱きしめて、わ~と泣き続けた。。。
「あ、もしもし、快子おばさん?私です、雛子です」
クリスマスもとうに過ぎ、季節は正月になっていた。年賀状は廃れたが、年始の挨拶だけはする、雛子であった。それに、懐子の世話の事で叔母に頼みたいこともあった。
「そうです。明けまして、、、」
「ボケました~!!」
気づくと雛子の隣で、懐子はニワトリの雄叫びの様な声を上げると、にっこりと微笑んだ。
介護は、これからも続いてゆくのだ。。。
完