陰謀と常識
何によって立つか
「この世に全知全能の神はいるか。」という問いに人はそれぞれが思うがままに答えるだろう。では、全知全能の人はいるだろうか。これは私の知る限りいない。全知など人間が個人の力で到達できるとはまったく思わない。科学の力を使えば可能かもしれないが。
Googleは何でも知っているという人がいる。Wikipediaは何でも知っているという人がいる。両方とも本当にそうだろうか。あれらに知っているという言葉はふさわしくない。なぜなら意思がないからだ。
あれらが提示しているのは人間の作った情報だ。すなわちあれは引き出しに過ぎないのだ。人間が作っている情報ということは書き手の感情や思想がその内容の中に滲み出ているだろう。ゆえにその情報は純粋な情報ではなく、色のついた情報なのだ。
私たちは無機質な媒体からのみ純粋な情報を仕入れることができる。例えば監視カメラあれは定点でそこで起こったことを偽りなく情報として記録している。あれには意思が介在しない。
では我々はこれまで純粋な情報のみを手にしてきただろうか。色のある情報ばかりを手にしてきてはないだろうか。そこにあるのは果たして真実と呼べるものなのだろうか。
あらゆるものが善意によって書かれているわけではない。私のこの文章も悪意を持って書かれているかもしれないと読者諸君は気に留めるべきかもしれない。何の力もない私の書いた文章に影響を受ける人は少ないだろうが力のある人だったどうだろう。何の疑いもなくそれらの言葉を信用していないだろうか。もしかしたらその言葉を裏付けるものなどなくただの嘘かもしれない。テレビ・ラジオ・雑誌など多くのメディアで書かれていることをあなたは無尽蔵に信用してはいないだろうか。それは本当なのか考えたことがあるだろうか。
では何を信じればよいのだろう。疑心暗鬼になる人がたくさん世の中にはいる。私はもはや変わりようのないもの、普遍的価値というのを見つけることを勧める。それか騙されきるということも手かもしれない。それで不都合がないならそれが幸せだろう。
もし普遍的なものを見つけるなら学ばなければいけない。多くを知らなければならない。私は自分によって立つことを意識している。他人の言葉を借りることもあるし人の言動に左右されることも多少ある。しかし、自分がその選択をする責任は私にある。私は私を裏切らない。ゆえに最も合理的に自分の信条に沿うことを決断しているだろうと考える。
みんながみんなまるで啓蒙されたが如く社会を考える時代が到来するかという期待を私はすでに抱いてはいない。そのような高尚な大衆は生まれないということは自明の理だ。ならばそれを先導する人間になるであろう者たちにこれを望むのだ。
陰謀について
陰謀という言葉がネットで囁かれない日はない。常にこれは蔓延し人々を楽しませている。楽しませるだけならいいが本格的に火が付き対象を攻撃することもしばしば。
情報社会の発達によりこれらは異常なまでに関心を集め何らかの攻撃の手段として散乱している。これらはいいことだろうか。まったくないとは思わない。少しはあるのだろう。ただ何でもとりあえず簡略化して陰謀といって憚らないのは言う側も信じる側も頭が弱いという疑いを持たずにはいられない。
冗談の一種で終わらずそれをそのまま各地にばらまくのはどうだろうか。内情を裏付ける努力があっての発言ならまだしもそれもせずにそのまま乗っかり煽るというのはとても頭のいい人間とは思えない。
ジャーナリストが動かないなら庶民が動けばいい。もはやジャーナリストの大半にジャーナリズムの精神などない。とうの昔になくなっている。なぜ右と呼ばれる人々が朝日新聞を攻撃するのか。それはfake newsが発信されたからだろう。
では逆に朝日新聞だけ嘘をついているとなぜ思えるのだろうか。朝日新聞がやっているのだから他の新聞もやっているのではと疑うべきではないのか。都合のいい部分だけを観すぎている。視野が狭すぎるのだ。広く目を持ち多くを聞き自らの意思でもって行動する。これはどの時代にも通じる。できる人間の条件の一種だと思う。
こないだ「経済」が「経世済民」の略だと知らずに経済学部を卒業した知り合いに驚いたばかりだ。勉強に終わりはないといい加減、日本人は気づいたほうがいい。その情弱さは間違いなくいつか命取りになる。
Polimos管理人 オカソ