ボナパルト家を取り巻く女性たち - オルタンス編《6》ナポレオンの没落
◆これまでのお話
母ジョゼフィーヌがナポレオンと離婚した後も、後妻マリー・ルイーズの世話役としてパリの宮殿に留まっていたオルタンス。
一方 オルタンスの夫ルイは、兄ナポレオンによってホラント王国(オランダ)の国王となっていました。
しかしナポレオンに反発してフランス軍の侵攻を招き退位、亡命。
こうしてオルタンスはパリでナポレオンの庇護を受けながら、2人の子供を育てていくことになるのでした。
◇
ルイの亡命から10ヶ月余り経った1811年5月20日。
ナポレオンの後妻マリー・ルイーズが男の子を出産しました。
ナポレオンにとっては待ちに待った嫡男の誕生でした。
当時オルタンスは、ナポレオンと離婚してマルメゾン城で隠居する母ジョゼフィーヌの世話をしていましたが、ナポレオン長男の洗礼式にも出席しなければなりませんでした。
しかもこの洗礼式のとき、オルタンスはある重大な秘密を抱えていました。
お腹の中に赤ちゃんがいたのです――。
◇
父親は、別れた夫のルイではなく、シャルル・ド・フラオという男性。
フランスの軍人でした。
オルタンスとフラオとの関係は、ナポレオンも黙認していました。
自分の弟ルイと無理やり結婚させてしまった負い目があったようです。
(詳しくは第3話)
しかしオルタンスは、妊娠のことは兄と近しい側近以外は誰にも漏らしていませんでした。
ただ洗礼式の頃のオルタンスは妊娠6ヶ月。
そろそろお腹が目立つ時期ではと疑問を持つ方もいらっしゃるかもしれません。
その疑問を解くカギは、当時の服装にあります。
この頃の流行は、胸下の切り替えからゆったり広がるエンパイアドレス。
この服のおかげで、お腹が大きくても分かりづらかったのです。
◇
さて洗礼式でゴッドマザーの役割を終えたオルタンスは、体調不良を理由にパリを離れます。
本当の理由はもちろん極秘の出産。
詳細ははっきりしていませんが、わずかな従者を連れてスイスのサンモーリスで9月17日に出産。
子供はフラオの母親が引き取ったそうです。
◇
この1811年9月以降 ナポレオンが失脚する1814年春までの2年半、オルタンスの事はよく分かっていません。
(とりあえず、どこかのタイミングでパリに戻ったよう)
そこで、同じ頃のナポレオンの様子を見てみましょう。
◇
少し時を戻して、ナポレオンに長男が生まれる半年前の1810年12月。
フランスの宿敵イギリスとの貿易を禁止する大陸封鎖令をロシアが破って、ナポレオンとの対立姿勢を見せます。
警告しても埒があかなかった為、1812年6月、ナポレオンは60万人の兵士を引き連れてロシアに侵攻しました。
これが有名な「ロシア遠征」です。
ロシア遠征の大失敗も、よく知られる通り。
ロシア軍はフランス軍の進路をことごとく焼き払い、物資や食糧の補給を妨害。
弱りきって退却を始めたところを狙われ、フランス軍は大敗します。
生きて帰れたのは、60万人のうちわずか5,000人だったと言います。
◇
この大敗北を見た欧州諸国は、ナポレオンを討つなら今、とばかりに第6次対仏大同盟を結成します。
1814年1月、各国は大軍を率いてフランスに攻め入りました。
3月31日にパリが陥落。
4月にナポレオンは退位してエルバ島へ追放されました。
◇
ここで、スイスからフランスに戻っていたオルタンスに話を戻します。
1814年に対仏大同盟軍がフランスに迫っていた事を受けて、オルタンスは2人の子供と母ジョゼフィーヌと共にナヴァール城へ避難していました。
↑この辺にあったらしいです。
(現在は取り壊されている)
母は既にナポレオンと離婚していたとは言え、母もオルタンスもナポレオンの庇護の元で暮らしていた身。
もし彼の身に何かあれば、彼女たちも無事では済みません。
しかし先述の通りナポレオンは敗北、エルバ島への流刑が決まります。
パリには対仏大同盟の軍隊であふれ、ナポレオンの支持者たちは姿を消しました。
ジョゼフィーヌはこの惨状を嘆き、31歳になっていたオルタンスは 幼い日に母と過ごしたマルティニーク島への亡命を考えていたと言います。
しかし、そんな彼女達に、ある国のトップが手を差し伸べます――。
続きます。
参考:
・Wikipedia
・Queen Hortense: A Life Picture of the Napoleonic Era