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ボナパルト家を取り巻く女性たち - ジョゼフィーヌ編《2》泥沼離婚、修道院へ

前回のお話

ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネは、フランス皇帝ナポレオンの最初の妻。

と言っても、彼女にはナポレオンの前に結婚歴がありました。

ただそれは、大人達が金銭面などの思惑があって結んだ取り決めであった為、夫婦仲は最初から険悪だったのです。

…という話からの続きです。

↓第1話はこちら↓


◆出産、そして泥沼離婚

さて最初の夫アレクサンドルは、離島からパリへ出てきたばかりのジョゼフィーヌを置いて浮気三昧。

それでも夫婦は一男一女に恵まれます。
1781年に長男ウジェーヌ、1783年には長女オルタンスが誕生しました。

(左: 長男ウジェーヌ/ 右: 長女オルタンス)

しかし、長女の誕生がジョゼフィーヌを貶める材料にされてしまうのです。

と言うのは、長女は1ヶ月ほど早産だったらしく、「軍務で家を空けがちだった自分との子供だとしたら時期が合わない」と夫から離婚裁判を起こされてしまいます。
(これは夫の愛人の入れ知恵と言われています)

夫の父親や その愛人であるジョゼフィーヌ叔母は夫を諌めようとしますが、効果は無し。
(そもそもこの結婚は2人↑が取り持った訳なので、責任を感じていたのかもしれませんね)

ジョゼフィーヌは叔母の勧めもあって、子供達と共にパリ7区にある修道院に身を寄せます。

《ちょっと補足》

修道院と言うと、シスター達が日がな神に祈りを捧げながら禁欲的な生活を送っている場所、というイメージがあるかもしれません。

私の中の修道院イメージ。



しかし、当時の修道院は裕福な家庭の子女が教育を受ける場所であったり、ジョゼフィーヌのように 困難な結婚に苦しむ女性達が共同生活を送るシェルターのような場所でもありました。

ここで、ジョゼフィーヌが暮らしていたパンテモン修道院の写真を見てみましょう。

こざっぱりした施設といった佇まいで、いわゆる修道院のイメージとは少し異なる印象を持たれるのではないでしょうか。

礼拝堂。 by Thesupermat, CC BY-SA 3.0
Wikimedia Commons
ベルシャス通り側からの入り口。
by Mbtz CCBY 3.0 Wikimedia Commons
階段。by Chatsam, CCBY-SA 4.0
Wikimedia Commons


話をジョゼフィーヌに戻します。

ジョゼフィーヌは、このパンテモン修道院で優雅なブルジョワの夫人達と交流し、パリでの社交術を身につけました。

離島の植民地生まれに由来する垢抜けなさは、周りのご婦人方を手本にすることによって上品な立ち振る舞いに変わっていったのです。

(↑フランスの上層ブルジョワジーを描いた絵)

しかし1785年2月4日、当時3歳だった長男ウジェーヌが夫によって修道院から連れ去られてしまいます。

ジョゼフィーヌは、息子を取り戻す為 すぐさま法的手段に訴えました。


そして、同年3月5日、裁判所による離婚が成立。夫は娘との父子関係疑いを撤回し、判決では以下のことが定められました。

  • 妻に年金、養育費、訴訟費用を支払う事

  • 長男ウジェーヌは5歳まで妻の元で育て、それ以降は夫が育てる。ただし、休暇中は妻の元で過ごす事

  • 長女オルタンスは、妻が養育権を持つ事

その他、ジョゼフィーヌの住居選択の自由も定められました。

当時のジョゼフィーヌは20歳。
かくして彼女は3歳と1歳の子供を連れて、シングルマザーとして生きていくこととなるのでした。

◆離婚後の足取り

ここまでの話が長くなってしまったので、駆け足で話を進めます。

離婚成立後、ジョゼフィーヌは修道院を出て元義父および内縁の妻である彼女の叔母と共に、フォンテーヌブローに移り住みます。

フォンテーヌブローには3年間住み、その間に3人の貴族の男性と良い仲であったと言われています。

そして1788年6月、長女オルタンスを連れて 少女時代を過ごしたマルティニーク島へ戻ります。
(この時7歳になっていた長男は、夫と共にパリにいました)


この時島に戻った理由は 色々言われていますが、確固たる説は無いようです。

極秘に出産をする為であったとか
(興味深いことに、後年、自分の母はこの1788年にジョゼフィーヌがマルティニーク島で出産した人物―つまり自分はジョゼフィーヌの孫であると主張する人物が現れています)、

元夫からの支払いが滞りがちで、実家に何とかしてもらおうと思ったとか、

はたまた海軍にいた愛人を追いかけて行ったとか。

いずれにせよ かなり突発的な行動だったようで、

  • 浪費癖で作った借金はそのまま

  • 宝石を売って船賃を工面

  • 間もなく夏休みの長男と共に過ごせる筈だったのに、それをすっぽかす

など、かなり急いだ様子が見られています。

ちなみにジョゼフィーヌは1度目、2度目のいずれの結婚でも 筆無精な事を夫から指摘されています。
日記なんて勿論書いていなかったのでしょう。
なかなか正確な記録を追うのが難しいですね。

何にせよ、フランス本土を離れた理由がよく分からないまま、マルティニーク島では長女を自分の乳母に任せ、ジョゼフィーヌ自身は海軍にいた愛人や何人かの男性達と、小さな社交界でよろしくやっていたようです。

マルティニーク島の風景

しかし、マルティニーク島に来た翌年の1789年、フランス本土でヨーロッパ中を揺るがす大きな出来事が起こります。

ご存知、フランス革命が勃発したのでした。

バスティーユ襲撃


続きます。

何とジョゼフィーヌ逮捕。
その理由とは?


参考

ナポレオンとジョゼフィーヌ (中公文庫)

Wikipedia
David Swatton

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